2011年 05月 24日 ( 2 )

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相馬㈱社屋。

もうほとんどの方は忘れているだろうが、昨年10月に「精神的相対性理論(1)」として私が自分で勝手に作った理論の序章のような形で記事にして連載を開始した。だが、(2)はまだ執筆していない。
今となっては言い訳以外の何物でもないが、(2)以降はほぼ毎日連載していきたいと考えていたのだが、そのようなまとまった時間と文章構成がすぐできなかったため、本ブログにおいて公開できなかった。

だが、私の頭の中には常にいつどのような構成で執筆しようかとアイディアを巡らせていた。ところが、これは普段の題材のようにお気楽に書けるものではない。小説で言うと、一度全5巻くらいになるようなストーリー構成を考えて、それを1巻に凝縮するような作業が必要となる。理論を書くというのはそんなものだと理解している。その凝縮作業がまとまらずに続きをなかなか書けないでいる。

さて、話はがらりと変わるが、この理論に至る開始点となったのはフロイトからだと前回に記した。それは間違いない。フロイトを知った20歳当時私は訳のわからないことで悩んでいた。最初は小さなことで(若かった当時は、それでも大きなことだったが)悩んでいたが、そのようなものが幾つか発生して重なると、何について悩んでいるのか自分でも全くわからなくなってしまった。
ただ、全身がだるく、気持ちを高揚させて活発に動かせようとしても、体が全然動かなくなってしまっていた。人から見ると、やる気のないだらしない若者に思えただろう。今自分がその時の自分を見たら、何だこいつと思うに違いない。
しかし、その程度のうちはまだ良い方だった。そのうち、しっかり睡眠をとって起床しても、たった3時間すると体がしんどくなり、布団に入って寝てしまうようになってしまっていた。普通に考えると鬱状態だったと思われるかもしれないが、精神医学的に分類している鬱とは異なっていた。交際範囲は狭いにせよ、人と会うのも苦ではなかったし、人と話をするのも楽しかった。だが、得体の知れない大きな力で体を圧迫されている感覚は常にあった。

出口のない洞窟に迷い込んでしまったようなものだった。そんな時、フロイトを知り、何かのきっかけを掴んだ。そして、次に出会ったのが、岸田秀氏の「ものぐさ精神分析」であった。この書はとても明瞭に物事の裏の成り立ちを解説してくれた。
我々が正義だとか常識だとか良識だとかと思って行っている行為は、全て幻想が起因となっていると教えてくれた。
例えば、親が自分の子供に対して、自由に育って欲しいと願い、そのように育てたとする。普通これは育児論という方法論として我々は理解し、その是非を考える。そして、その考えで子供が自由に育っていると見えたら、親は自分の考えは間違っていなかったと満足する。
ところが岸田氏はこれも幻想だと一刀両断する。子供は親がいなければ何もできない無能な生物である。これは事実だ。1歳児が親から独立して、立派に働き生活しているという話を聞いたことがない。無能な子供は親を頼るしか生きていく他に術はない。だから、親に気に入られようと努力する。親が子供に対して「自由に生きている」という姿を望んでいるのなら、親が喜ぶ「自由に生きている」と思われている行為を自らに課し、それを実行しようとする。
つまり、子供からすると、自分が「自由に生きている」ように行動をすると、最も大切な親からの育児支援を受けられるから、義務的・強迫的にそれを実行しているに過ぎないのだ。ところが、親はそれを見て、自由に育ってくれたと勘違いをして、育児方法として正しかったという幻想を持つことになる。この論理は、親側から見た甚だ勝手な一方的なものであり、幻想でしかない。だが、これを幻想であるという見方で論じなかったら、育児論として片付けられているであろう。

このような展開の論旨が、その書には詰っていた。爽快な気分になった。狭い範囲の判断基準の中でもがいて考える必要がなくなった。そこには善も悪もなく、正解も不正解もなかった。物事は相対的に存在しているという概念で考えると何もかもがすっきりとした。
水は100度になると気化する。それが善だとか悪だとか誰も言わない。ただそれだけの現象だ。人間の精神も同じように、このような状態になったら、あんな行為やこんな行為を起こしてしまう、それは100度になったから気化したのと同じように必然的に起きる現象なのだ。岸田氏はそんな具合に明快な説明を、誰にでもわかるように簡単な表現で述べた。

この氏の説を自分なりに、物事の相対性という観点から様々な解析をしたのが「精神的相対性理論」であった。

恐らくこの考え方は物凄い反論か無視される可能性が高いと思っている。善と悪、快楽と苦痛、明と暗などを基軸に考え、それを自分の自我にしていると、排除したくなる論理となるであろう。だが、先程も述べたように、水が100度になったら気化するというのと同じ観点から説明するものであると信じている。
まぁ、気化する温度を100度としたのも、氷になってしまう温度を0度としたのも、人間の恣意的・便宜的理由によるものだから、それすらも絶対的なものではないのだが・・・。

その考えがどんなものなのか、それは必ずこのブログでに書き留めるつもりでいる。それを書くまではこのブログはやめることができないと思っている。


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八幡町の一角。

今月初め、久し振りに登場させてあげたら、図に乗ってまた出たいと昭和のおやじが言い始めました。ですが、今回は何が何でも阻止しようと思います。本ブログをこれ以上荒らされては・・・うっ!痛い!・・・・・・・やられた。

「へっへっへっ、馬鹿な奴よ。どんなにいいこと言っても、こんなひ弱な奴は一発ぶん殴ったらお仕舞いよ。口だけで体力なんか全然ねぇんだから。おめぇも桜と同じよ。ちょっと強い風が吹いたらすぐ散りやがる。おっと、今回は奴が寝てしまったからゆっくり話せるな。おれは話がしたいだけだ。ちょっと握った手がぶつかったら、すぐ寝る奴とは違う。真面目に話がしたいたけでぇ」

「いやぁ、何だな。最近のわけぇもんが聴く音楽っちゅうもんは、一体どうなっていやがるんだ、えっ?何訊いてもみんな同じに聴こえる。娘がよ、ビー玉だかビーズだかという男達の音楽聴いていたけど、何時間も同じCD聴いているのかと思って、娘に、おい、いつまでおんなじの聴くんだと怒鳴ってやったら、うるせぇおやじ、3枚目だと怒鳴り返されちまいやがった。おれも頭に来たから、何枚聴いても同じだから1枚だけ持って、あとはうっぱらいやがれって言ったら、家出して3日も帰って来なかった。へっ、不良少女になっちまいやがったもんよ。親がこんなに優しい人間なのに」

「若い女の歌手だって同じようなもんだ。息子がテレビで必死こいて観ていやがったが、いつまで経っても歌手が変わんねぇと思って、チラッとテレビを見ると、さっきと違う女が歌ってるじゃねぇか。いやぁ、びっくらこいた。人が変わっても歌は変わんねぇんだもな。似たような声で似たような歌い方して、そりゃあおれだって区別つかねえわ」

「これは何でだ、と思って音楽関係者に訊いてみた。何?おれは音楽という柄じゃねぇって。馬鹿にするんじゃねぇ。これでも田舎でやったNHKのど自慢大会に出たことがあるんだぞ。歌は完璧だった。だがな、鐘を鳴らす奴が2つ鳴らしたところで脳溢血でぶっ倒れやがって、結局失格よ。それで歌手になれなかった。親戚中から一族始まって以来の不幸だと言われたくらいだ。そんな昔のことはどうでもいい。まぁ、そこで作曲家の先生と知り合いになったわけだ。その先生から色々聞いたんだな、これが」

「そしたらな、今流行るのは、カラオケで歌える歌なんだと。あんまり歌うのが難しいとCDが売れないらしいんだな、先生が言うには。だから作曲するのも大変だってよ。いいメロデーができたと思っても、カラオケで歌えないようなものだったら、わざわざ作り変えるらしいんだな。で、結局にたようなメロデーになっちまうわけよ。何でかって?今の子供たちはカラオケで歌える曲がないと困るからに決まってるべや。CD買うのはカラオケの練習みてえもんらしいんだな」

「カラオケだって馬鹿にできねぇらしい。何といっても金になる。知ってるか、だいぶ昔たった1曲だけヒットを出した苫小牧出身の歌手に、1ヶ月200万円も入ってるんだとよ。ほとんどカラオケの印税だっちゅう話だ。おい息子よ、何かいい曲作れ。それが親孝行ってもんだ」

「だがな、やっぱり金だけじゃねえ。音楽は味のあるもんじゃなきゃだめだ。とーしろが歌えなくたっていいんだ。本人しか歌えない歌、それがプロってぇもんよ。名曲はな、プロが作るもんだ。そして、本当の歌のプロはどんな種類の歌も歌える。そんな歌手が日本にもいたじゃねぇか。美空ひばりだ。あれは本当に上手い歌手だ。横文字の歌手でいうとな、ビートルズだ。奴らは音楽の全部をやっている。全部だぞ、全部。どの曲聴いてもおんなじにはなっていねぇ。わかったか、えぃ。これでも聴いて耳を肥えらせてみろってぇんだ」




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