カテゴリ:函館の歴史( 56 )

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今月発行されたpeepsに柳川熊吉のことが書かれていた。
柳川熊吉に関しては、碧血碑の傍にある「柳川熊吉翁の碑」の解説板にあることしか知らなかったため、その人物像の一端が窺えて大変参考となった。そこで改めて先日碧血碑を訪れてみた。かなり昔、このブログで碧血碑のことを取り上げようとして訪れた時以来である。

その記事にも書いたかもしれないが、私が碧血碑を初めて知ったのは30代半ばの時だった。今のようにネット情報などもない時代の中、何のきっかけで碧血碑の存在を知ったのかは記憶にないが、碧血碑は私の考えを変えるきっかけを作ってくれたものだった。当時私はこれからどのように生きて行ったらいいのか、その方向が全くわからなくなっていた。ただ、その日をとりあえず生きているという、ただ生存欲だけでかろうじて命をつないでいたような日々を送っていた。逆に言うと、自分ではいつ死んでもそれも当然だろうという気持ちでいた。

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そんな時、この碧血碑と出会った。そして、この碑が作られた経緯を知り、自分がこんなに歴史が詰まっている函館で生まれてきたことになぜか意味を感じた。この意味は第三者から見ると特別意味のある事とは思えないであろう。函館で生まれた人間は数多くいたのだから。私だけに与えられた特別な意味とはならないと人が思うのは当たり前のことだろうと思う。だが、自分の中から何もかもが無くなりそうになっていた私にとっては、それは自分がこの世に存在する意味をかろうじて見出すことができるきっかけとなった出来事だった。

自分が育ったこの街で戦争があり、徳川が完全に終わり、その後北海道で最も豊かな(あるいは全国的でも)都市となった街を幼いころから自分が歩き回っていたと思うと、自分と函館の間に何かで繋がった気がした。

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そんなことを碑の近くにある東屋から市街地を眺めながら考えていた。今、その場所からは市街地が木々の枝葉で見えづらくなっている。自分の記憶が変わらないまま、時間と木々の成長が現代に向かっていたのだった。

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そんなこともあり、私が函館の歴史に関心を持った最初の出来事がこの碧血碑であった。函館の歴史を語る貴重な痕跡は、特に西部地区の普段気が付かない場所に、まるで探し出した者にだけしか教えてあげないよ、といわんばかりに密かに佇んでいる。

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あまり知られていないことですが、江戸時代から現在まで、函館において(旧亀田村は除く。江戸時代は市街地が全く離れていた。現代で言うと函館市と大沼ぐらい離れた感覚ではないかと想像する)その町名が残っているのは弁天町と大町だけなのです。

どうしてそうなったのかという経緯はわかりませんが、弁天町は江戸から明治に変わっても函館の中心部の役目を持ち、人口が密集する函館でも重要な「街」であった。
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しかし、市電が整備され、市街地が人口増加と共に広がって行くと、賑やかだった弁天町も次第に隙間風を感じるようになった。
私が高校生時代だった昭和50年代初め、太宰治の「斜陽」のような空気が弁天町に漂い始めた。

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函館ドックの仕事終わりに労働者たちがビールを飲んで食べていたホルモン焼き店がいつも間にか閉店していた。市電ドック前にあった食堂が閉鎖され、ドックの従業員は大幅削減され、その時、弁天町から離れて行った家族も多数いたのかもしれない。私は自分が住んでいた弁天町に沈みゆくものにできる影を感じ、直感的に函館を離れたいと考えるようになった。そこで高校を卒業すると札幌に行った。

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ところが、函館に戻り近くをくまなく歩いてみると、良く言えば下町、現実は人口減少が著しい「7過去の街」になっていた。
だが、これは函館の縮図である。歴史ほんの一時期栄えた街は、時間と共に寂しい街へと変身しなければならなくなってしまうように、函館の都市構成が変貌した。
以前に何度か話したが、いつまで経っても、東京の銀座は銀座であり、渋谷は渋谷であり、新宿は新宿であり、青山は青山だ。だから東京はいつまでも東京なのだ。

その市街地の中で、賑やかになる地域が時代と共に変わっているのは、函館がいつまでも函館であるとは限らないという推測を導く。
だから今弁天町、などとは言わないが、、この街が変わるかどうかは、今後の函館の数田を象徴することになるのではないかと思っています。



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とある古民家にあったミシン台を撮影。昔、ミシンメーカーの「BROTHER」が一時期兄弟種として、「SISTER」を販売していたようで、このミシン台にはミシンそのものはありませんですが、全国的にも貴重なものであるそうであります。

うーん、アンティークはどうしてこうも人を惹きつけるのだろうか。



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函館に足りないもの。それは函館にまつわる物語だ。
全国色々な街で、その街を舞台として繰り広げられた物語が存在している。もちろん函館にもさまざまな知られざる物語があるが、残念ながら全国的な知名度がある物は少ない。私は、ライフワークとして、その物語を書きたいと思っている。ある程度の構想はあるが史実をある程度取り入れなければならないため、まだ素材としては不十分なものが多数ある。そもそも主人公すら決めていない。

年表の物語版のような書籍は地元にも意外とあるが、日本の中での重要な歴史の分岐点と人の思いを交えた「創作物」は残念ながらない。
その「物語」を死ぬまでの間に完成させなければと思っている。もし傑作ができたなら、大河ドラマの候補にでもなればいいと自分でも思っているくらいの「函館のドラマ」を書いてみたい。

今、函館に最も不足しているのは、市内各所にある案内板(決して不用と言っているわけではない)ではなく、それらがつながって壮大なドラマとなる小説であると思っている。どのような内容を頭にストックしているかは今のところ言えないが、時代に翻弄された一族の悲哀を中心に描いて函館が過去に繁栄した様を物語にしたい。

そんな告白をワインを飲みながら話してみました。

物語のキーワードとなるのは津軽海峡でしょう。



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森町鷲ノ木の海岸にこの碑はある。本当に目立たなく訪れる意思を持って探さなければ見つからないような場所だ。
しかし、函館地方における歴史的な大事件はここから始まったのだ。ここに旧幕府軍が上陸しなければ今の函館はなかっただろう。

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旧幕府軍はこの地から箱館に向かい、官軍や松前藩と闘い箱館・松前を手中にした。戦いが劣勢となった松前藩士たちは奥尻や青森に逃避せざるを得なかった。
しかし、青森で大編隊を組んだ官軍と松前藩士は合流し、津軽海峡を渡って旧幕府軍と最後の戦いを挑むことになる。

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ところが、官軍が北海道上陸を果たしたのは、太平洋側である鷲ノ木と反対側の、日本海にある乙部町であった。これには意味があると推測している。
それをきちんと説明しようとしたら、もはやブログではなく小説の分野でしか書くことができませんので、詳しくはお話ししませんが、この上陸から始まった箱館戦争は、江戸時代が終焉する最後の戦いであったのと同時に、相馬哲平氏などの豪商を誕生させることになった。

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そしてこの戦いは、私の遠い祖先である松前藩家老蠣崎家の離散という結末を迎えるものになったのである。



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函館は運に恵まれている街だった。「だった」と過去形にしたのは、その運を活かそうという意識を函館市民から感じないからだ。

かなり大雑把に函館の歴史を確認しよう。
まず、最初の大きな幸運は、開港だった。この開港により、貿易都市函館が誕生した。それも海外との取引であった。そのため函館駐在の外国商人のために洋風住宅が建築され、街の形態を大きく変えた。
幸いなことに、北海道および北洋で漁獲される魚介類は当時函館に集積されていた。そのため商人が函館に多数存在するようになった。それに加え、北洋漁業の拠点ともなり、寄港している船舶数の増加に伴って造船業も盛んになった。
そう、その時は函館に金が集まっていたのだ。特に明治後期になると、繁盛した商人たちは、そのお金の物を言わせて次々と高品質の建物を建築した。それも洋風のテイストをふんだんに取り入れたものだから、当時の写真を見ると、まるでテーマパークのような、ありえないだろうと思われるほどの欧米化した建物が連らなっていた。まさしく横浜に次ぐ「近代化した街」と言えるほどの新しいものを取り入れることができる環境にあった。このあたりが現在の函館西部地区の原型となっているのではないかと筆者は想像しているが、ともかく、函館は全国でも特別な「希望の街」のひとつとなった。

それはしばらく続いた。おまけに青函連絡船により、函館が北海道の玄関口という役目を担っていたのだから、函館という街の存在の重要度は非常に高かったと思われる。また、函館の資産家は相当な財力を有していたと想像できるのだ。だから何度も大火に遭い大きな面積を消失したとしても、復興するために要した時間は少なかったのではないかと思う。

そしてその復興された建築物も未だに函館の街を彩るアクセントとなる古建築物として現存するほど堅固に建築され、デザインも優れたものが多かった。それは函館の財力を象徴するものであったのだろうとそうぞうできる。

しかし、戦後、次第にソ連との漁業交渉で年々漁獲高が減少を余儀なくされ、漁業関係としての函館の立ち位置は弱くなっていくことになった。それと連動するように造船業の経営も悪化する一方となり、港湾関係の職業の衰退は急激で大規模になった。
それでも、「北海道の玄関口」というアクセスの利点もあったのだが、北海道への移動が飛行機が主流となると、その地位も自然消滅することになる。

そして、ついにその時はやって来た。ドックの再建のための大量リストラ・関連会社・取引会社の倒産などで、海関係は壊滅状態と呼んでもおかしくないほどに疲弊した。
しかし、函館は幸運だった。全国にも誇れるほどの大都市だった函館の街並と夜景は、それを一目見ようとする観光客が相当数来函していたのだ。
そこで函館は海の街から観光の街という方向転換を急減に行った。観光地を整備し、今まで野放状態(と言ったら大袈裟だが)元町公園周辺を整備した。
観光は、函館の港関係で賑わい金をふんだんに使って建てた家が並んだ道路を歩くことで、訪問者に異国情緒菟ある街という印象を与えることができた。そして、もう一つの幸運は、その古建築物に維持保存に対して、著名な方で言うと、SECの故沼﨑氏や魚長食品の故柳沢氏などが積極的に古建築物を買い取り再活用してくれたことだ。これらがなければ、今の函館はそうとうみすぼらしい街になっていたかもしれない。また、個人でも自分の古くからの建物を護ろうと私財をなげうっている方々もいる。

そのような幸運が重なって、函館は造船・漁業の不況による打撃からかろうじて救われた。

そう、函館は幸運だったのだ。
しかし、今危惧されるのは、自分は運良く函館という街で生活をできているという意識を持っている人たちがかなり少ないということだ。
函館には年間約500万人弱の観光客が訪れている。この方々が落としていく金は相当なものになる。一人2万円としたら1000億円にもなるのだ。それが、街全体に流れ、私たちはとりあえず生活をしていくことができる。それを意識できている人は函館市民の中で何割いるだろうか?
それどころか、観光収入源の中心地となる西部地区をぞんざいに扱っていたり、無視したりしている人の多さは毎日仕事や生活をしているかなりの割合でいることが何となくわかる。

つまり、函館に最後に残された幸運を食いつぶして滅んでいくことを望んでいるかのように、目先の快楽を追及していということだ。西部地区を親だと仮定したら、親がせっせせっせと稼いだ金を子供たちに分配したら、親を殺すためにその金を使っているようなものだ。

さて、函館市民は最後の幸運を尽きるまでそれが気が付かないのだろうか?



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8月31日午後11時40分、別れを告げる時がついにやって来た。

その前に千鶴子さんからお客さんへの最後のご挨拶があった。

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その後店内に「また逢う日まで」が流れ、店にいた者たちが大合唱した。
そうだ、これで終わるわけではない。まだ続きはあるのだ。だが、これを機に退職することになった成田さんは感極まって目頭を押さえた。

そして、北大水産学部の寮歌なのか何かは忘れたが、アルバイトの方々が合唱した。そうだ、ここのアリバイとは水産学部の学生が歴代務めていた。切っても切れない関係だ。

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すると隣にいた高校の同期生が函館中部高校の校歌を歌い始めた。私の母校でもあり、元子さんの母校でもある。

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今まで何度もシャッターが閉まるまで飲んで元子さんと一緒に帰ったことがあったが、この時はシャッターを閉める場面を見たくなかった。それは私たちにとって永遠に閉じられるシャッターだからだ。

さぁ、杉の子を目に焼き付けよう。

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そしてまた逢う日まで、金粉入りのシャンパンで最後の乾杯だ。

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杉の子物語と言っても、私は語れるほど杉の子に通い詰めたわけではない。
通い始めたのはここ4~5年のことだ。店の長い歴史から見ると、ほんのわずかな期間だ。
だから、世間一般の方々が読んでためになるようなことは書けない。あくまで自分が知り、感じ、思った自分との自分たけの物語を少し話そうと思う。

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杉の子に生まれて初めて行ったのは、中学2年の時(1972年)だったと思う。当時は昼間の営業もしていたようだ。写真上の故泰郎マスターの息子と同級生だった私は、彼と大門で遊んだ(確か映画を観に行ったと記憶している)後に、彼に連れて行かれてこの店に入った。
その時は彼のお母さん(千鶴子大ママ)がカウンターの中におり、青いソーダ水をご馳走してくれた。ちょっと薄暗く、正直言って、子供の来る所ではない(笑)と感じたし、また、この店の素晴らしさを知る由もなかった。ただ、同級生の親が経営している店。そんな存在でしかなかった。

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その千鶴子さんの言葉で今でもはっきり覚えていることがある。
それは、彼の家に遊びに行った時のことだった。今で同級生と映画の話を色々しているうちに、(年齢的にそろそろ関心を持ち始めた)ポルノ映画を観に行こうかという話になった。もちろん大真面目ではなかったが、その会話を聞いた千鶴子さんがこう話した。

「ポルノ?そんなのつまらないから他の映画を観たら?」

衝撃的に素敵な言葉だった。普通の母親であれば、「まだ子供なんだから、そんなの見るんじゃない」と叱るのが定番だったからだ。千鶴子さんに叱りたい気持ちを抑えている雰囲気はなかった。
学校の他の同級生の間では、彼の両親の子供になりたかったという者がけっこういた。私もその気持ちがよくわかった。

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その同級生が生まれた年に杉の子は誕生した。
広く知られていることだが、その年泰郎さんはキャバレー経営に失敗し、1200万円(北海道新聞では1000万円となっていたが、元子さんは1200万円と言っていた)もの借金を抱えていた。今のお金に換算すると何億になるのだろうか。そして、新たな子供が生まれた。

そんな四面楚歌のような状況の中、杉の子をオープンさせた。もちろん貧乏であったはずだ。だから店のマッチのデザインも印刷屋さんに頼むのではなく、千鶴子さんが書物を切り取ってマッチ箱に貼りつけ、その上に手書きで店の名前を書いた。それが冒頭のマッチだ。オープン当初のものということだ。

今では、博物館に飾ってもいいほどの貴重なものだが、当時はそうするしかなかったのだろう。

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泰郎さんと千鶴子さんは、家に行くといつもにこやかに出迎えてくれた。そして彼の部屋で遊んでいると、東京の大学から帰省したお姉さんと時々会った。それが元子さんであった。内心、凄くきれいなお姉さんだなと子供心に思っていた。

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高校を卒業して、私はしばらく函館を離れ杉の子で飲むことはなかった。
しかし、40代後半だったろうか、行こうというきになって一人でいってみたら、千鶴子さんは大喜びをしてくれた。私のことももちろん覚えてくれていた。
それから、千鶴子さんが引退して元子さんが経営者としてカウンターに立ってしばらくしてから私は通うようになった。そこでとても中学生ではわからない杉の子の良さを知った。

それは、父泰郎さんが娘元子さんに教えた言葉がきちんと伝わっていたからだろう。

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昨夜、最後の挨拶をするために駆け付けた千鶴子さんと話した。
「昔は友達の親の店というイメージで見ていたけれど、今では普通に素晴らしいみせだと思っています」
すると千鶴子さんは、「きていただいたお客さんがみんないい方たちばからりだからこうなったんですよ」
私は速に返した。
「いえいえお父さんお母さんがいい方だから人が集まったんですよ。

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函館の夜は、秋とも思えるような風が吹いていた。
季節が変わったのだ。
8月31日で閉店する杉の子に行くまでは、時間を要した。
最後の日に行くべきか行かざるべきか。

でも、行ってしまった。

これは最後の夜のドキュメントである。撮った写真は出し惜しみはしない、皆さんにとっての「杉の子」を深く記憶にとどめていてほしい。

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地元の人でも、最近大野平野って言わなくなりましたが、ここ北海道で初めての稲作が始まったとされています。江戸時代の初期だそうです。

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そんな農地の真ん中を新幹線が走る風景を想像すると、まるで上越新幹線か、北越急行を思い出します。はっきり言って両方とも田舎風景ですが(笑)

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