カテゴリ:函館の歴史( 57 )

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1976年は私が高校3年生になった年だ。奇しくも新年のブログで昨年のことを「とんでもない1年」と話した辰年であり、やはりその通り色々なことがあった年だ。

この年、私が親しくしていた人との別れが相次いだ。同級生の休学、行きつけの喫茶店の閉店、大学受験勉強のために日常的な交流が減った者もいた。次第にどこか虚しい空気が自分の周りに漂っていた。だが、音楽だけは相変わらずであった。前年独立開業した「Sound Papa」のはいからコンサート、GreenGrassでのプライベートコンサートなどに出演し、今考えると馬鹿げているがプロのミュージシャンになりたいと漠然と思っていた。

その年、こんな曲がヒットした。



私たちがよく聴いていた、泥臭い音楽から都会のセンスに溢れた曲が代わって多く出現した。

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この前の年、函館ドックにゴライアスクレーンが建基された。函館の風景が大きく変わった。元々広くないが微妙なバランスで美しさを保っていた函館港が、ただの港になった気がした。
そして、大人同士の会話からドックの経営が思わしくないようだとの噂を聞いた。その話を聞くまでもなく、函館にはどこか影がかかっているように、子供ながらに感じていた。沈みゆく船に乗っているような気がした。函館を出たかった。函館を出なければ、函館と一緒に自分も沈みそうに感じた。

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その頃、西部地区のことを特別好きだとも思っていなかった。本町周辺の都会的な雰囲気が好きだった。だから都会に出たかった。どこの大学でもよかった。札幌に行こう、そう決めたのは1976年の初冬だった。

チボリでは荒井由実がひっきりなしに流れていた。おしゃれなデニムショップも本町にあった。生まれて初めてパーマをかけたのも本町であった。翌年、札幌で美容室に入ると、女性客から奇異の目で見られた。ひょっとしたら函館の方が札幌よりも感覚的には進んでいたのかもしれない。





何かか大きく変わろうとしていた。どこに向かってどんな風に変わっていくのかはわからない。
だが、多感だった10代の者にとって、1976年のはこだてはハード過ぎた。そんな思い出しかない。



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北斗市中央にある種田邸。

明治自時代に「渡島王」と呼ばれた男がいた。種田金十郎である。金十郎は上磯の種田家本家八代目に当たる人物である。種田家の渡道は江戸時代初期にまで遡る。(以下、北斗市HPより)

「種田家は北斗市の旧家です。出処については慶長5年(1600年)関ヶ原の合戦に破れた九州秋月家の庶流、種田権頭胤直が有川村へ佐井村(南部)経由で渡道したといわれています」

有川村とは旧上磯のことだ。写真は建物は分家もので、また、もうひとつ残る北斗市役所前の建物も分家のものである。基本的に種田家は大網元として名を上げ、財を築いた。その種田家の中でひときわ勢力を伸ばしたのが八代目の種田金十郎であった。(以下、北斗市HPより)

「本家は種田金十郎(8代目)の代に名声を博し「渡島王」と呼ばれました。場所請負人の岡田半兵衛から古平漁場の譲渡を受け、室蘭・小樽方面へも拡張し、戸切地陣屋の造営や箱館戦争等に松前藩
の会計方として深くかかわりました」

この金十郎氏、これだけではなかった。今の太平洋セメント(旧浅野セメント)の大元を作った人物なのだ。(以下、北斗市HPより)

「明治5年(1872年)、ケプロンの推挙により地質兼鉱山師長として日本に招かれた、ライマンによる石灰石鉱山(峩朗鉱山)発見を受けて、明治17年(1884年)、地元の有力者である種田金十郎が当時の建築技術最先端をいくセメント工場を資本金5万円で創設。(中略)しかし、セメントの製造法が国内でも周知していない状況の中で、経営不振に陥ってしまった。全国的にもこの頃、上磯セメントのような失敗例は石灰岩の採れる地域で見られるが、その中でも、上磯セメントは最も早い方であろう。(中略)日本においてセメントの需要が安定してきたのは、明治24年(1891年)の濃尾大震災において、洋風建築として普及していた石灰モルタル積みの煉瓦造りよりセメント建築の方が、はるかに安全性があると証明されてからである。また、大正12年(1923年)の関東大震災において、セメント需要が増加し、安定傾向に入ったことを考えれば、上磯セメントはやはり時期尚早という感が否めない」

「明治23年(1890年)4月10日、上磯セメントの経営不振による借財を肩代わりし、吉川泰次郎、園田実徳が北海道セメント株式会社を設立。資本金20万円。社長は浅野セメントと合併するまで阿部興人が就いていた。発起人や株主は在京の実業家や官僚と函館の豪商たちで占められていた。地元上磯の内海三貞、平野浅吉、関屋八太郎、そして上磯セメントを設立した種田金十郎も含まれている」

何と、明治の早い時期にセメントを建築資材として使用するために工場を作ったのだった。そして、長らく北海道のセメント業界の牽引役となっていたのだ。
ずっとどうして上磯があれほどの隆盛の跡が残っているのかと不思議に思っていた。まだ旅の手段が徒歩しかない時代の、函館からの最初の休憩地としての需要が高かったということもあるが、これほどの人物のお膝元であれば合点がいく。

そして、その上磯セメントが浅野セメントに吸収合併された後にできたのが、下の写真の「倶楽部」である。

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「大正8年(1919年)、セメント工場正門前を山手に向かってすぐのところにセメント会社の倶楽部が建てられた。1階には応接室、球技室、囲碁室、便所、洗面所などがあり、2階には集会室兼食堂、配膳室、談話室があり、本社および関連会社などからの来客に対する場として利用されていた。
広さは1階が74坪余、2階が48坪余の計122坪余あり、昭和になって内部の改装が行われ球技室などはなくなったが、不燃材を使用した外壁は当時のままである」(以下、北斗市HPより)

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鐘があったからでもあるだろうが、やはり、明治時代の函館周辺は、「実験場」であったのだろう。実験を繰り返していた時が一番輝いていたのだろう。




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私が西部地区に住んでいるのには理由があります。
もちろん、1歳の時に親が引っ越してきてからずっとここで育った函館の故郷であることも大きな理由のひとつです。ですが、それだけではありません。

高校卒業後、ずっと函館を離れていて、帰省するたびに昔と変わらず存在する街並である反面、その部分部分が崩れて来ている喪失感を幾度も味わいました。

札幌のような歴史の浅い大都市に住んでいると、目まぐるしく過去の街を壊し、新しく生まれ変わることに慣れ、全く変わらない西部地区を時代から取り残された廃れた街と思っていた時もありました。特に若い頃のことです。

ところが、歳を重ねるつれ、函館の魅力に気付き始めました。それは、やはりこの地域があることでした。それが最大の魅力でした。他の街にはなく、函館だけにあるもの。それは、開港して北海道第一の都市として栄えた歴史と、それを作った人々の息遣いを感じる街であること。日本の歴史においても重要な場面や背景を持った街であること。

その街が次第に壊されて行くことが残念でたまりませんでした。
色々な事があり、函館に戻ろうと決心した時、西部地区に住むことに全く躊躇はありませんでした。就職先がどこになるか、その通勤を考えてどこに住んだらいいか、などとは全然考えませんでした。どこが勤務場所になろうが、私は西部地区に住むことに心を決めました。どんなに遠い所に通勤しようが、ここに住むと決めました。

何度もしつこいくらい話していますが、街並は人が住んでこそ守られていくものです。どんなに人が西部地区はいいと言っても、誰かがそこに住み続けないと町は廃れて行きます。一部の西部地区の住民は、多額の私財を使って歴史ある建物を維持しています。そのおかげで、まだかろうじて街並が保たれているわけです。

私にはそんなお金はありませんが、せめて住んで街の「息遣い」の一部になればいいと思っています。「息遣い」がなければ、本当に街は死にます。

日本でも、世界でも、歴史と共存しながら変わり行く時代と融合している街や国は廃れていません。西部地区が廃れたのは、共存しようとしなかったからであるでしょう。

はっきり言って、西部地区は不便です。今でも妻はその不便さに文句を言います。でも、私は引っ越すつもりは毛頭ありません。西部地区内では引っ越すこともあるかもしれませんが、もし、私が西部地区を出る時は、函館を出る時です。

不便だから人がいなくなるのではありません。人がいなくなるから不便になるのです。もし、便利さだけを求めるなら、迷わず札幌に引っ越します。妹の近くに住み、老後を近親者とともに楽しむことも悪くはありません。病院だって札幌の方が色々選択できるでしょう。その札幌だって、最初から便利な街だったでしょうか。便利になるように作られた街だから、今の札幌があるのです。
それ以前は、ただ広いだけの街だったでしょう。

例えば、農業に携わらずに、または、農家との話をせずに農業政策を語ったり、函館市に住んでいないにも拘らず、市職員として市政にかかわったりするようなことと、同じようなことはしたくないのです。ただそれだけです。

人が本当に便利さだけを求めるのであれば、地方都市が存在する理由はなくなるでしょう。ですが、過疎と言われながらも、いまだに存在している街には、その理由と役割があります。また、その中には、住民が自分たちが持っている役割と魅力を伸ばそうとしているところもあります。

さて、函館市民にとって、函館の存在理由と役割は何なんでしょうか?


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旧亀井邸。

函館市民でも、文学や函館の歴史に関心のない人はほとんど知らないことなのだが、大三坂は文学史に残る作家を複数輩出した、文学通りだ。

写真の旧亀井邸はみなさんご存知であろう。ところが、この家の隣が、直木賞を受賞した久生十蘭(本名・阿部正雄)の生家だったことはあまり知られていない。ところが、隣と言っても、坂下の隣なのか、裏側の隣なのか私はまだ確認していない。近々詳しく調査するつもりであるが、現在までの調査では坂下の隣が久生の生家である可能性が高い。
また、「丹下佐膳」の作者である、長谷川海太郎もすぐ近くに住んでいたとのことだ。

当然、この地域の住人であったとすれば、私にとって小学校の先輩であるし、また、3名とも高校の先輩でもあった。関心を持ってしまうのは当然だが、それよりも、例えば漫画界での「トキワ荘」から手塚治虫氏や赤塚不二夫氏、藤子不二雄氏、石ノ森章太郎氏などの漫画界の先駆者たちを産んだように、この界隈に住んでいた者たちが、互いを意識して文壇を目指していたとしても不思議な話ではない。
そのような事実があるかどうかは今後の課題としても、結果的に多くの文学史上に残る人材がこの大三坂界隈から巣立っていったのは確かだ。

3名の親は皆裕福で、それゆえに大学進学や文学の勉強などの資金もあったという背景もあっただろうが、裕福だから文学者に必ずなれるというわけではない。感性なり、才能なりが必要だ。
函館にはその才能を育む土壌が微かにでもまだ残っているはずだ。その証拠に、現在の某有名新書の編集長は函館出身者である。また、辻仁成や佐藤泰志などの作家も輩出している。

このように見ていくと、やはり西部地区は才能を育成させる環境下にあると言える。人口の割には文学の逸材を輩出していない札幌と大きく違うのはこの点だ。

後は、市民がこの土壌をアスファルトで隠して固めてしまうか、再び豊穣な畑になるように耕すか。我々市民はそのどちらかを選択しなければならない。



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屋根に停まるカモメと函館山。入舟町にて。

最初に断っておくが、この話は人伝えと一部ネット上で調べたものであるので、どこまで正確かはわからない。だが、全くの信憑性がない話でもない背景があったため、本ブログにて掲載することにした。
また、当初は実名を挙げるのもどうかとも思ったのだが、ソニー創業者の一人の盛田昭夫氏の語録にもあるようであるし、ネットでも調べることが可能であったため、きっと知らない函館市民も多くいるのではないかと思い、記載してみることにした。

ソニーの創業者は前出の盛田氏と井深大氏である。この井深氏の父親の従兄弟にあたるのが、太刀川米穀店の太刀川善吉氏であった。ところが、井深氏の父は早く亡くなり、早稲田大学在学中であった大氏は、底をついた井深家の財産では賄えずに、善吉氏から送金を受けていたようだ。

つまり、太刀川家と井深氏は単に親戚であったということだけではなく、金銭的な関わりももっていたということだ。この関係はソニーの前身である、東京通信工業時代にも繋がっている。
何と、東京通信工業の株の55%を太刀川家が所有していたのだった。これは、先代の妻が亡くなった時、葬儀に自家用ジェットで駆けつけた井深大氏が周囲に語ったとされる話だ。つまり、ソニーは太刀川家の出資によって始まったと言っても過言ではないのだ。

また、東京通信工業の創業時には経理関係の取締役として太刀川正三郎氏が就任している。銀座のソニープラザの経営も太刀川氏が携わっていたという。それほど太刀川家とソニーは密接な関係にあった。
それだけではない。東京通信工業時代に資金の工面のために、東京から幹部が何度も太刀川家を訪れたという話もある。

ソニーが上場して大企業へと変貌していく過程のどこかで、太刀川家は株を売却して金銭利害関係はなくなったようだが、井深氏は恐らく太刀川家に足を向けて寝ることができないくらいの恩があったのだろうと想像される。

これらのことは伝聞とネット情報からのものであるので、どこまでの信憑性があるかわからないが、全くのでたらめではなさそうだ。そう考えると、太刀川家がなかったら、「世界のソニー」は今存在していなかったということも充分考えられる。
このあたりが、函館が繁栄していた時代の豊富な資金力を表す逸話の一つであるのだろうか。知らなかった私が恥ずかしい。


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昔の港まつりのスナップ写真。中央が筆者である。

まずお詫びから申し上げなければならない、昨日のブログ記事であるが、執筆中に猛烈な睡魔に襲われながらも、書いてしまったのだから最後までという無謀な続行を敢行したが、本日読み直してみると、とんでもない数の誤字・脱字があり、読んでる方々もあきれたり読みづらかったりしたのではないかと猛反省をした。
文章は訂正したが、どうかご容赦の程、お願い申し上げます。ちなみに、書き終えてアップすると同時に布団に入り、何秒かで別の世界に行ってしまった。

もうひとつお詫びをしなければならない。冒頭の写真だ。これは多分私が5歳か6歳の頃の写真であると思われるが、港まつりの写真を探しても、近年撮影したものが全くなく、過去の写真を採用するしかなかった。別に自己愛的で掲載したわけではないので(笑)、どうかこれもご容赦いただきたい。

さて、本題に入る。もうすぐ港まつりである。函館港まつりといえば花電車である。花電車といえば、大音量で走行中に流している「函館音頭」だ。



子供の頃、電車通り近くの自宅にいて、この曲が聴こえてくると、急いで外に飛び出し花電車を待った。遠くから煌びやかな電飾の花電車がゆっくりとドック前電停に近づいて来る。
昭和30年代、夜の大門のネオンを知らない子供にとっては、とてもとてもきれいな灯りだった。今の子供で言うと、東京ディズニーランドの夜のパレードを見るくらいワクワクした。別世界だった。

そんな心のウキウキを増幅させてくれたのが、北島三郎の「函館音頭」であった。私にとって、港まつりはこの曲がないと始まらない。この曲を認知してから45年以上経っても、やっぱりこれでなくてならないのだ。

「景気つけましょう、浮かれましょう」
今こそこの歌詞が必要なのではないか?

この曲をYou Tubeで調べていたら、「函館大門音頭」というものを見つけた。そうだ、これもあった。夏に大門に遊びに行くとこの曲が流れていたことを思い出した。
そして、この曲を歌っているのが、何と!加藤登紀子だった。これは知らなかった。



函館という街は何と幸せな街なのだろうか。北島三郎は地元ということもあり、すんなり理解できるが、加藤登紀子までが歌ってくれていたとは。
そして、写真。このような写真は、撮影技術や構図やピントが合っているかどうかなんて全く関係なく、素晴しい。この光景を記録したというだけで素晴しいことなのだ。

写真というものをシンプルに考えると、結局人の心に残るものを撮れるかどうかが最も大切なのではないかと、これらの写真を見て思えてくる。

夏の出来事や風景は心に残るものが多い。今年はどんな思い出を心に刻むことができるだろうか?


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旧相馬邸正門。

このようなタイトルを読んでも、ピンとこない方も多いかもしれない。松前の名は知っていても、蠣崎というのは何だ?と疑問を持つ方がたくさんいるだろう。

細かく書くとかなりの長文になるので、簡単に説明する。室町時代以前に、道南に12の舘があった。江戸時代の何とか藩のミニチュア版みたいなものだ。その中のひとつが河野政通の宇須岸館、すなわち箱館であった。
当初、津軽安東家出身の安東氏が12館の中での親分のような立場にいたが、武田信廣がアイヌ人との戦いに勝利すると、上ノ国の蠣崎家の養子になって蠣崎家を継ぎ、道南は蠣崎家が掌握することになった。そして、2世光廣の時に上ノ国から現在の松前(当時の福山館)に拠点を移し、5世慶廣の時に徳川幕府より藩として認められ、姓を蠣崎から松前に変えた。だが、家臣であった蠣崎家の者にはそのまま蠣崎姓を名乗らせ、以来、家老は松前家・蠣崎家・安東家の中から選出されることになったとされている。

つまり、松前藩は、元を辿ると蠣崎家が治めていたと言っても間違いではないのだが、ちょうど画家として有名な蠣崎波響が家老の時、ロシア南下政策を採った際、松前藩には任せてはおけないととの理由で、松前家(蠣崎家)は陸奥国の梁川(福島県)に江戸幕府によって追いやられた。
地元に帰りたいと願った波響はせっせと絵を描き、外国人などにそれを売り、その金を幕府に献上して何とか松前に戻ることができたわけだ。
ちなみに、蠣崎波響の孫にあたるのが、ペリーと交渉したことで有名な松前勘解由である。

そんなわけで地元に戻れた松前家であったが、幕末の戊辰戦争によって一族は各地に散らばり、藩を治めていた威光は無くなってしまった。地元に残った者も、漁業や農業を営んで暮らすこととなった。もちろん廃藩置県で藩主の身分もなければ、士族解体によって階位までも失ってしまったのだった。
そのような時代の波に右往左往させられたのが、松前家(蠣崎家)であった。一般民となった両家の生活は貧しくなった。じっと耐えて生活をしなければならなくなったのであった。

蠣崎家出身の私の祖母も、片田舎の貧しい農民であった。


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松前・法源寺。

このブログは、元々個人的なブログであるので、思い切り個人的なことを書かせていただく。(いつもそうだが、本日は特に)

本日(正確には昨日)ある方と話をした。話は2時間半以上にも及んだ。そこで、私は自分にまつわるキーワードを得た。


・松前家

・蠣崎家

・伊達家

・公家

・アイヌ人

・安東家

・松前と上ノ国


これらのキーワードを紡いで、その物語を探っていくことが、自分の人生の説明に繋がるような気がした。ライフワークになるのかもしれない。


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ヤコボ酒井武雄という人を知っているだろうか?ヤコボはクリスチャンネームである。
中央図書館のデジタル資料館「はこだて人物誌」でも紹介されている音楽家であり、音楽教師であり、多くの校歌を手掛けた作曲家でもあった酒井氏と私はちょっとした縁がある。

まず、はこだて人物誌に記載されている、酒井氏の略歴を紹介しよう。明治39年当時道庁勤務であった父栄次郎氏の子として、札幌で生まれる。だが、武雄氏が8歳の時に父は道庁を退職し、渡島当別のトラピスト修道院のバター工場に勤めることになった。
これがきっかけで、武雄氏は修道院内にいた修道士から、オルガンや作曲などを教わった。その後、函館師範学校を卒業した武雄氏は、現在の亀田小、白百合高校、函館高校、函館中部高校で音楽教師として勤務する。退職後も音楽教室を開き、後進の指導に当たるなど、人生のほとんどで音楽に関与した人物である。
そして、生涯において函館市内の学校の校歌を数え切れないほど作ったのだった。

酒井武雄氏が作曲した校歌の学校の一部を紹介しよう。中には統合によって廃校となった学校もあるが、ある程度の年齢の方にはお馴染の学校ばかりだ。

【小学校】駒場小、日吉が丘小、大森小、湯川小、上歌小(歌志内)

【中学校】光成中、松川中、潮見中、五稜中、深堀中、愛宕中、新川中、銭亀沢中、福島中、上磯中、石別中(渡島当別)、八束中(今金)

【高校】中部高

私はこの中の2校で酒井氏の作曲した校歌を歌った。まぁ、これは地域的に似たような環境にいれば、誰でもありえる酒井氏との縁だが、それ以外にもちょっとした縁があった。

酒井家が父の職業の関係で、札幌より当別の修道院に勤務していた時の家があった。その家の場所は、函館から向かって当別の修道院に続く坂道に入るために右折する踏切の手前、木古内よりのすぐ隣であった。ここに酒井家は住んでいた。
この場所は修道院の所有地である。酒井家が居住していたのは自然である。その後、酒井家はこの家を離れた。その後に、修道院は一般の者に家を売り(であったと思う)、購入者はしばし住んでいたが、金銭的な関係で手放すことになり、私の祖父がその家を購入したのだった。ただし、土地は借地であった。

そこは父の本籍地であった。私も父が本籍を函館に移すまでは、そこが本籍地となっていた。私にはあまり記憶がないが、確か平屋であったと思う。そして両親の話によると、その家は確かに一般的な日本人の家とは異なっていたという。
その家で撮影された私が1歳の時の写真があるが、背景が不鮮明であるため室内の様子はよくわからない。だが、洋館のようなものではなく、畳の部屋がいくつもあったことはそれなりに覚えている。

私はキリスト教徒ではないが、なぜかキリスト教と縁がある。小中高と同じ学校だった同窓生一家もキリスト教徒で、母親が音楽教師であったし、他の同級生の家としてヨハネ教会に遊びに行ったこともある。
まぁ、西部地区に住んでいればこのようなことを体験する可能性は高いが、さすがに酒井武雄氏の家となると、偶然でもできすぎていると言うしかない。長く生きていると、若い時に知らなかった歴史というものを知る機会が増えるものだ。


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6/26のキャンドルナイトにて

もうすぐ七夕祭である。この時期になると、函館で子供たちが近所の家を一軒一軒回って歩く時の掛け声がよく話題になる。他都市から来た方は、初めて触れる風習に驚き、また、市内でも掛け声が地域によって若干違ったりもするみたいだ。
私の子供の頃に発していた掛け声は、「たけにたんざくたなばたまつり、おおいわいわお、ろうそくいっぽんちょうだいな」という文句だった。これをちゃんとした文体にすると、「竹に短冊七夕祭、大いに祝おう、蝋燭一本頂だいな」ということにでもなるのだろうか。でも、その頃は意味なんかどうでもいいから、たくさんお菓子をもらいたかったことを覚えている。

さて、七夕といえば天の川である。函館及び道南にお住みの方であれば知っていると思うが、その他の地域では道内でもけっこう知られていないのが、上ノ国町を流れている大きな川が「天の川」であるということだ。
札幌でこの話をすると、私が言うせいだろうか、胡散臭い眉唾物の話にとられてしまった。かなり私の責任もあるが、だが、それくらい知られていないのだ。

では、この冗談のような名前の由来はどのようなものなのだろうか?上ノ国町のHPを調べてみた。以下、同町HPからの抜粋である。

「元和四年(1618)キリスト教イエズス会の宣教師ジェロニモ・デ・アンジェリス(イタリア・シシリー島出身)がひどい嵐のため上ノ国の天の川付近に上陸し、陸路松前に向かった。ヨーロッパ人の最初の北海道上陸である。三年後アンジェリスは蝦夷地図を作成しているが上陸した地点に「ツガ」と表記されていたことから、上ノ国の古名ツガ(テガ)の漢字表記「天河」が天の川の名前の由来であると言われています」

天の川という嘘のようで、でも、とても素敵な川の名は、きっと先人の情緒溢れる感性から生まれたのだろう。ある意味勇気が必要な命名だが、そんなことも不必要だったのかもしれない。何せ、上ノ国(神の国)なのだから。

その上ノ国は、和人が初めて蝦夷地に定住した場所とされている。鎌倉幕府が開かれる3年前のことだ。それなのに、この地域からは縄文式土器などが多数発掘されている。ということは、日本においての縄文文化はアイヌ人が築いたものだという仮設も立てることができるが、そのような話を聞いたことがないので、私得意の妄想であるかもしれない。

話を天の川に戻そう。この何ともファンタジーに溢れた川で幼い頃何度か遊んだことがある。母の実家が上ノ国にあり、母に連れられて訪れた時に、従兄弟にくっついて行った先のひとつが天の川だったのだ。
幼少の頃、この川はとてつもなく大きな川に見えた。流れも速く、とてもではないが泳ぐ気になれなかった。怖かった。しかし、従兄弟は果敢にもその川に入り、見事に鮭を銛で突いて捕獲していた。凄いと感心したのも束の間、おまわりさんが来るぞという誰かの声に、皆で橋の下に隠れた。私は何が何だかわからず、ただボーと河川敷に立っていた。それが密漁に該当していたことに気付いたのは何年か経ってからであった。でも、今にして思うと、警察官もきっと見て見ぬ振りをしていたのだろう。そんなのどかな時代だった。



もうすぐ七夕である。この季節になると、天上の星の天の川と、上ノ国町の天の川を同時に思い浮かべてしまう。どちらも自分にとってはかけがえのないファンタジーなのだ。


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