
唐草館。ここが最初に開店したのは25年以上前だったと思う。わざとレトロに作った建物だとずっと思っていた。素晴しすぎる。
本日の北海道新聞夕刊のトップは29日公開開始される箱館奉行所の記事であった。ちょうど夏の観光シーズンの真っ只中、それなりの入場者数はあるだろう。問題は来年以降だと思うが、その件は実際に中を見たり運営実績を見てから書こうと思う。
その夕刊の第6面に「引きこもり70万人」という見出しの記事があった。内閣府の調査によるもので、全国の15~39歳の男女を対象に実施した結果、対象者5000人、回答3287人のうち、「引きこもり」と認定されたのは1.79%であり、全国換算すると69.6万人に及ぶという。
この70万人が羨ましいと思う。なぜなら、「引きこもり」のためには資金が必要だからである。皮肉で言っているのではない。現実的にその通りだからだ。
もしも今、私に有り余る資金があったら少なくとも1年間は引きこもっていたい。じっと家ににいて、本を読んだり郷土史を勉強したり、厳選したハワイコナをあせらずゆっくりおとして飲んだり、時には気が向いた場所まで散歩をして写真を撮ったり、病院で集中的に体の隅から隅まで検査してもらったり、日常に飽きたら国内海外に旅行したりと、やりたいことはたくさんある。小説や論文も書きたい。
だが、そんなことは到底できないので、残念ながら引きこもるわけにいかず、今日も夜まで働いて来たわけだ。
そんな個人的なはかない願望は別として、引きこもる転機となった原因を読むと、大きく分類して「挫折」と「環境に馴染めない」であった。
若い時はちょっとした挫折で落ち込んだりすることはよくある。私もつまらないことをまるで人生の一大事のように深刻に考えて悩んだりした。そして、アルバイトに行く気になれず、仕事を辞めたこともあった。
自分もそうだったから言うわけではないが、若い時はある程度仕方ないと思える部分がある。特に「自尊心」という殻に籠り、社会との接触が部分的にしかない年齢では自我の存亡の危機に直面するからだ。ところが今回の統計では、社会に馴染んでこれから社会の中心となって働かなければならない30代が20代・10代よりもずっと引きこもっている数が多いことがわかった。
今の30代と言えば団塊ジュニア世代であり、モンスターペアレンツ世代であり、学生時代は就職氷河期であった世代である。この世代の特質についての私見は別の機会に述べたいと思うが、先程の資金力という点で考えると、引きこもるほどのお金があるのかという疑問が芽生える。
30代で引きこもるほどの貯蓄を作ることができるのは、今の時代相当な一流企業に勤務していなければできないと思う。または、配偶者の収入が高く、片方が退職しても充分食べていけるのか、あるいは親からの資金援助を受けているのか。いずれにしても、それらは全体からすると占める割合は低いと考えられる。
もっとも多いのは親と同居して、生活は親が面倒を見てくれているというタイプであると思う。
こう考えると、「引きこもり」はいくら景気回復ができていないと言われていても、それなりの経済力の基盤があって初めて起きている出来事と言える。
だからと言って、引きこもっている人を捕まえて、「あなた贅沢な人だね」と言うつもりはない。本人にとっては、金持ちであろうがなかろうが、自分という尺度で考える時には結び付かないことだからだ。家から出れないものは出れないのだし、人が怖ければ怖いのだし、他人から見るとつまらない事柄でも、本人がおおごとだと思えばおおごとなのだから。
それらを別の尺度で否定しようとしても無理があるし、強く諭そうとするとそれは脅迫以外の何ものでもなくなる。
このような問題を個人のみにスポットを当てて話すのはとても容易で耳障りがいい。だが、はっきり言って社会の問題である。つまり我々の業の反映であるのだ。
メディアはいつまで経っても根本的な原因追究をしようとしない。なぜなら、視聴者である国民を否定しなければならない作業が生じるし、影響の一端になっている自らをも否定しなければならなくなるのだから。
延々と続く対処療法的な報道では何も変わらない。個人は社会に比べて圧倒的に弱い存在なのだから。