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10月26日と27日の2回に分かれて、函館市主催の第一回西部まちぐらし創造会議が開催されました。
私は2日目の27日に出席させていただきました。
出席の際に、事前に市民や商業法人から回答のあったアンケート調査の結果や今後の取り組みのレジュメをいただきましたが、特に目を引いたのは(これが今後の西部地区の大きな課題とになる部分でしょうが)西部地区内に居住存在している個人や企業よりも圧倒的に西部地区外の個人企業が答えた「暮らすのに不便」という回答でした。

ちなみにこの質問で、個人で地域内住の方はわずか23.1%だったのに対してて、地域外住の方はその倍を超える55.7%にも及んだことです。これこそが函館の大きな問題点だと改めて(想像は容易にできていたけれど)思い知らされていました。
西部地域内に住んでいる人は、買い物などの利便性が芳しくないのも、「それでもやっていけるのだから」と思っているのに対して、地域外の人は「自分たちが今いる環境に比べると不便を感じる」ということでしょう。
さて、便利な地域を想像しますと、ロードサイド店舗が集中している地域ではないかと推測されます。私から言わせていただくと、「日本中どこにでもある風景にの中に住むのが便利」ということになります。しかし、その景観はやはり「日本中どこにでもある風景なのです」特に地方都市には。その生活の便利さを西部地域に持って行こうとすると、西部地域は「どこにでもある街並」に変貌するでしょう。そんなところをわざわざたくさんのお金を費やして旅行に来る方がいるでしょうか?今年と同じように好感度No.1の街になることができるでしょうか?そして、高感度No.1になったのは、容易に西部地区があったからと想像できます。

ロードサイド店が経ち並ぶ産業道路を周辺を「魅力ある函館のスポット」と言える自信のある方はおりますでしょうか?おそらく観光客のの大多数はその地域を見るためにわざわざ函館まで訪れるのはお金の無駄だと思われるでしょう。こんなの自分の町でも見れることだ。だから、西部地区はいつまでも西部地区でなければならないのです。観光収入が函館市にとって重要であるのは間違いないのに、どうして市民の皆さんはそこを滅ぼすような考え方をするようになったのでしょうか?

この度の会議は一般から参加者を公募したものでしたが、出席者の内、西部地区内在住の者はごくわずかでした。
しかし、この会議は実は、土地再生特別措置法に基いて函館市が作案した立地適正化計画の事業第一弾として行われようとしている、大掛かりなものであるのです。これを、また「西部地区をどうのこうのというマニアックな話し合いなんでしょう」と思ったら、とてつもない過ちを犯すでしょう。確かにこのような会議は過去に何度も行われていましたが、今回のプロジェクトが適正に動くかどうかで、大袈裟ではなく、函館の今後の将来がかかっていると言っても過言ではないでしょう。

私は、仕事上この会議の内容等を事前に聞く機会があり、是非会議に参加したいと思いました。ここでは詳しくお話しすることはできませんが、函館市は今までできなかったことをやろうとしています。それを後押ししたり、より効果的な策を提案することが、この会議に参加する意義と言えるでしょう。もし失敗したら、西部地区を根本的に再生する最初で最後の会議になるかもしれません。決して大げさに言っているわけではありません。

私は、この会議ではできるだけ発言をし、函館の夜景の手前側の光を消さないようにしたいと考えています。実はそれほど重要な会議なのです。
今のところ具体的な詳細をお話しできないのは心苦しいですが、何か方向性がわかりましたら、またこの場でお伝えします。




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海辺で、その風景を見、遠く先をに目をやると、この海は世界に繋がっている、といつも思う。

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あの大きな山を越えると函館とは違った世界を知ることができるかもしれない。

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だから海や山の向こう側に飛び立ちたいという衝動に何度もかられてしまう。
これはきっと人間の原始的な欲求であるのではないかと、自分では考えている。

その欲求によって函館に本州から多くの人々がやって来、私たちの先祖とになった。
また、北海道という広大な土地を開拓できたのも、「むこうにあるものを知りたい」という原始的な欲求が元にあるのではないかと思う。
私が東京やヨーロッパに目が向かっているのは、きっとこの海を見たからなんだと思う。



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今月発行されたpeepsに柳川熊吉のことが書かれていた。
柳川熊吉に関しては、碧血碑の傍にある「柳川熊吉翁の碑」の解説板にあることしか知らなかったため、その人物像の一端が窺えて大変参考となった。そこで改めて先日碧血碑を訪れてみた。かなり昔、このブログで碧血碑のことを取り上げようとして訪れた時以来である。

その記事にも書いたかもしれないが、私が碧血碑を初めて知ったのは30代半ばの時だった。今のようにネット情報などもない時代の中、何のきっかけで碧血碑の存在を知ったのかは記憶にないが、碧血碑は私の考えを変えるきっかけを作ってくれたものだった。当時私はこれからどのように生きて行ったらいいのか、その方向が全くわからなくなっていた。ただ、その日をとりあえず生きているという、ただ生存欲だけでかろうじて命をつないでいたような日々を送っていた。逆に言うと、自分ではいつ死んでもそれも当然だろうという気持ちでいた。

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そんな時、この碧血碑と出会った。そして、この碑が作られた経緯を知り、自分がこんなに歴史が詰まっている函館で生まれてきたことになぜか意味を感じた。この意味は第三者から見ると特別意味のある事とは思えないであろう。函館で生まれた人間は数多くいたのだから。私だけに与えられた特別な意味とはならないと人が思うのは当たり前のことだろうと思う。だが、自分の中から何もかもが無くなりそうになっていた私にとっては、それは自分がこの世に存在する意味をかろうじて見出すことができるきっかけとなった出来事だった。

自分が育ったこの街で戦争があり、徳川が完全に終わり、その後北海道で最も豊かな(あるいは全国的でも)都市となった街を幼いころから自分が歩き回っていたと思うと、自分と函館の間に何かで繋がった気がした。

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そんなことを碑の近くにある東屋から市街地を眺めながら考えていた。今、その場所からは市街地が木々の枝葉で見えづらくなっている。自分の記憶が変わらないまま、時間と木々の成長が現代に向かっていたのだった。

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そんなこともあり、私が函館の歴史に関心を持った最初の出来事がこの碧血碑であった。函館の歴史を語る貴重な痕跡は、特に西部地区の普段気が付かない場所に、まるで探し出した者にだけしか教えてあげないよ、といわんばかりに密かに佇んでいる。

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今、テレビの報道番組で必ずと言ってもいいほど特集を組まれている、積水ハウスの五反田の物件が舞台となった詐欺事件について、たまには本職の立場から話してみようと思います。

まず、皆さんは天下の積水があんなインチキな集団にいとも簡単に騙されるものなのかという疑問を持つと思いますが、それが可能性としてあるのが不動産の流通市場なのです。その理由が今回のタイトルである「怪しい不動産こそ魅力がある」故にあるからなのです。
可能性と申し上げたのは、私が実際に行ったことがないからで、もちろん実際にやったことがあったのなら、ここでこんなことを話し始めることはできるはずがないわけですが、ともかく経験上その「可能性」があるのは理解できます。だが、今回のように事件として取り上げられ、本格的な捜査が入らないという運があったらという前提での話ですが・・・・・。

その「可能性」の手段・方法は、ここでは話しませんが、ひとつだけその可能性を高くできるものをお話ししますと、公的証明書を精緻に偽造できる技術です。これがあれば、(運が良ければ、あるいはその物件を取り巻く状況に隙が生じていたなら)詐欺は事件とならない可能性があります。
それをお話しするのが今回の記事の目的ではありませんので、これ以上はお話ししませんが、そもそも何となく怪しそうな人物たちにどうして騙されたのかにはある理由があります。それは、希少価値の高い物件ほど表に出回らないからです。例えば、皆さが普段通りにいつもの道を通っていたある日、今まであった建物の解体が始まり、「売物件」という看板も何も立たずに、そのうち新しい建物の建築がはじまっていた。こんな経験は誰にでもあるでしょう。このような物件は不動産業の世界に身を置いていても気が付かないことが多いのです。いわゆる「水面下で動いていた物件」だからなのです。

このような物件は意外と多いものです。たまに、この不動産会社、お客さんが全然来ていないのに商売やっていけてるの?と、疑問を持ってしまう会社を見たことがありませんでしょうか?そのような中で水面下で動くことを専門に行っている会社があるのです。
さて、どうして水面下で動く物件というものができるのかと申しますと、よくあるパターンが、企業所有である物件です。不動産業でも何でもない企業が、自ら所有する不動産を売却したいと思っていたとします。その理由は色々あるでしょうが、それはそれとして企業が最も怖れるのが、売りに出ているのが表面化して、「不動産を売却しなければならないほどあの会社経営状態が芳しくないのか?」という風評被害であります。本当に経営改善のためだとしても、不必要な疑念を第三者に与えるのはどの企業も好ましいものではありません。ですから、水面下で売買を成立させることができるような不動産会社に依頼をするわけであります。
こんな経緯で売りに出された物件ですから、当然その情報自体希少価値があります。この情報はとても大切に扱われます。こういう物件を購入する可能性のない所には、任された不動産会社は決してその情報を流したりいたしません。私も同様のことをしておりました。まず検討の開始もしない企業等には持って行きません。その鼻をきかせるのが担当者の役目なのですが、そういう情報がたまには今でも私の所に流れてきたりします。函館の物件が東京の某大手不動産会社から。

そのような情報活動の中から上手くマッチングできたら、私たちの知らないうちに売買契約が成立されていることになります。
もちろん私もそのような販売方法で契約を成立させたことがいくつもあります。例えば、とても気になる空地があったとします。そこで登記所でその土地の所有者を調べて、時には直接訪問して、時には電話して、どちらもできなければ手紙を送付したりして売却の意思があるかどうかの確認(あるいは交渉)をします。その中で明確にいくらで売るという金額を提示されたわけではないが、「欲しい人がいたら売ってもいいですよ」という返答があったらそれは「水面下での売物件」になるのです。ただしこういう場合は、明確な販売金額は所有者のとの間では確認できない場合があります。所有者としてはできるだけ高く買ってもらった方がいいに決まっていますので、あえて価格を具体的に話すことはありません。
ではどのように販売したらいいのか?よく私たちは住宅地図の該当物件の箇所にサインペンでしるしをつけて、○○○㎡(○○坪)という数字を手書きして、せいぜい測量図程度のものを添付して検討してもらえるだろうと思われる所にその情報を持って行きます。

これは、ネットで簡単に売物件を調べることのできる現代の流れとは正反対のことです。しかし、情報に埋もれている時代だからこそ、このような物件の情報を提供すると相手側は強い関心を示すわけです。その相手側は、個人の場合であると、医者や会社経営者などのいわゆる高額所得者であります。そのような方々は一般的に流通されている物件にはあまり関心をもつことがありません。「ああ、あの物件、知ってるけどね、もっといい物件ないの?」という話になってしまうわけです。そのような方々に先ほどの地図に記しをつけただけの物件情報を持っていくと、「ここが売られることになるなんて知らなかった」という驚きと、市場に出回っていないという希少性から、もっと詳しい情報が欲しいという話になって行きます。
そこで、いくらだったら買いますか?という打ち合わせをして、売主の所に話しを持って行きます。ここで初めて売主が売りたいと思っていた金額がわかることが多いのですが、その金額と契約条件等を話します。これで多少の価格の際があったとしても双方が妥協できたら、どちらかが折れたら売買成立となります。その時、(木々和洋が売主の場合もそうですが)別に売るつもりはなかったのだけれど、どうしても欲しいという人がいたから売ってやったんだ、という言い訳を売主はできるのです。
買う側としては、立て看板があり、ネットにも情報が流れている「さらしもの」になっている物件ではなく、まるであなたのために用意された物件という魅力を感じてしまうわけです。

何度も申し上げますが、このような「水面下」物件は特に大都市部の一等地には多くあります。あるいは希少で価値の高い物件は、このようなものに多く存在します。それはどこの不動会社も知っています。だから、積水は策略にはまってしまったのでしょう。

表面に出ない怪しい物件ほど魅力があるというのは、こういう現在の不動産流通システムがまだ残っているからだしょう。でも、需要と供給のバランスが保たれている以上、「表に出ない物件」は今後も減ることなく「話」がその業界の中で飛び交うことになると思いまする
なお、最初の偽造等のはなし以外は違法でも何でもない取引のやり方であります。ですから、それを利用して「詐欺」の話にしていくことができるのでしょうが・・・・。



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以前も同じようなことを書いたかもしれませんが、ここ1年以上自ら進んで飲みに行くことがめっきり減りました。誰かと約束したからとか参加すべき飲み会があるからという以外にはほとんど飲みに行かなくなってしまったのです。

気力体力の負のスパイラルとも言えるかもしれませんが、とにかく家に帰って休みたいという気持ちが強くしまっているのです。真直ぐ家に帰りおとなしくしているのは、一見とても真面目だと思われるかもしれませんが、決してそうではないのです。還暦になってからこんなことを言うのも何ですが、やはり遊びは心身両方を活性化させてくれるものです。

という弱音を吐くためにこの記事を書いたわけではないのですが、これではまずいと、睡眠と休養をしっかりとり、やっと前向きに活動ができそうになった時、あの地震と停電が起きました。その時のストレスは先月書きましたが、その後疲れが取れないうち、仕事の休日が不規則になり(これは以前から決まっていたことですが)、まずは真直ぐ家に帰り体を休めようという元の生活に戻ってしまいました。

つくづく今年は立ち止まらなければならないことや引き摺ってしまうことが多く、だからと言って無駄にもがいても仕方ないので、じっと次にパワフルに動ける時期がくることを待っています。私には仕事以外にやらなければならないと勝手に自分で考えていることがあります。それをやるのは自分の努力次第だろうと人はおっしゃるでしょう。全くその通りです。しかし、やるからにはちゃんと遊びたい(?)活動したいというカッコつけた気持ちがあるから、動き回るのを自粛している次第です。

ともかく、60歳になった人間が言うのですから間違いありません(笑)遊びは人の活動の活発化を誘導します。それが仕事やその他のことに遠回りに好影響を与えます。ですから、できるのなら、(破滅しない程度に)夜遊びはしましょう(笑)もしそれができる状況でなければ、じっし耐え忍びましょう。
今のままでいいと言う人には余計な話かもしれませんが、まだ何かをやって行きたいという人は適度に節度を持って夜遊びすることをお勧めいたします。

自分も体力の修正をはかりながら、今日も少し早めに眠ることにします。
もし、知人でこのブログを読んだ方がいらっしゃったら誘ってください(笑)体調が許せば行きますよ!!




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誰にでも・・・恐らくどんなに環境的に恵まれていると思われている人にでも、必ず苦しい時がやって来る。どんな苦しさなのか、身体的なことなのか、経済的なことなのか、精神的なことなのか、社会的なことなのか、それは人によって違うでしょうし、時期によっても違うでしょうが、必ず来るという意味ではたぶん人々に平等に与えられていると私は考えています。

そんなことはない、いつも自分は苦しいばかりで楽しいことなんてひとつもないとおっしゃる方もいるかもしれません。それはその人にとっては事実でしょう。「苦しさ」に客観性があるわけではないのですから。でも、ひょっとしたらその人は目の前に楽しいことがあったとしても、それを楽しもうとはしていない人かもしれません。「くだらない」とか「どうせ自分は」などと無意識のうちに自分を不自由にして、楽しむことができないのかもしれません。
でも、そういう人には、「何もしないことによって自分を変える必要がない」という楽なことができているのです。今手が届かないものを手にするためには、自分の何かを変えなくてはいけません。そういう冒険をしないことによって、たとえ苦しくてもそういう自分をどこかで肯定しようとしているのではないでしょうか?それでは、自分に言い聞かせた「苦しいことばかりだ」という自分からの脱皮はできないでしょう。

さて、そんなわけでもない人にでも苦しい時は必ず訪れてまいります。それは平等にやって来ます。
そんな時、ある程度人生を生きて来た人間の一人である私は、苦しい時は楽しいことを考えるようにします。そして、苦しい時は、やがてきっと来るであろう楽しい時のことを思いながらじっと耐え、できることからひとつひとつ地味に何かをやって行きます。

するとある時、「楽しいこと」は突然目の前に現れて来てくれます。まるでご褒美のように、

小さなたとえで話しますと、普段歩いている街の道端に今まで見たことのない花が咲いていた。
それを全く気が付かないか、気が付いたとしても「こんなもの一円の金にもならないや」と思うか、「あっ、今日は珍しいものを見ることができた。きっとこれからいいことがあるかもしれない」と考えることができるか。

苦しい時には、いずれ必ず来るであろう楽しいことをイメージして、その時出来ることををコツコツとやって行くしかありれません。でも、その先にはきっと楽しいことが手を拡げてあなたを抱きすくむでしょう。そういうものだと信じて生きています。




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それほど大きい山でもないけれど、
近付くとなぜかホッとする、
その山の麓で、函館山に抱かれて
今日も寝ましょう

おやすみなさい



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昨日の報道で、今年のノーベル平和賞にコンゴ民主共和国のデニ・ムクウェゲ氏とイラクの少数派ヤジディ教徒ナディア・ムラド・バセ・タハさんに授与されることが決定されたことを知った。最初の感想は、少なくとも一部に候補として挙がっていた中国の習近平国家主席と北朝鮮の金正恩委員長のダブル受賞やトランプ大統領でなくてよかったというのが正直な気持ちだった。
これらの者たちに賞を与えるのはあまりにも軽率であり、ノーベル賞の品格が下がると思ったからだ。(ノーベル賞の品格がどれほどのものなのか、ちゃんとしたことはわかっていませんが)

さて、今回の受賞予定(本人にも拒否をする権利があるため)の両者に共通しているのは紛争地において起きている女性への性暴力に対して行動をとった方々だが、この方々に対してではなく、受賞の理由などに少し疑問を持った。それは報道の表現の仕方なのか、本当にノーベル賞委員会がそう言ったのかはわからないが、「紛争地で兵士が行った性暴力という残虐な行為に対して・・・・・」という表現があった。
私はこういう言葉を聞くたびに疑問を持ってしまう。

人間にとって最も残虐な行為とは、どんな理由があろうとも、それは殺しである。戦争はそれを互いにやる最も残虐で非理性的な行為だ。人間が行う行為として最も愚かで絶対に許されないものである。しかし、国際法で戦争時における性暴力は戦争犯罪であるという内容の定義づけをしているようだが、これ自体が私にはよく理解できない。性暴力は戦争時であろうが平和時であろうが、犯罪であるという本質性には差がない。それを戦争時においてという状況設定することによって行為の種類が変わるとはとうてい思えない。

国際法には同じように「非人道的兵器」と定義しているものがある。私から言わせていただくと、人を殺すのに人道的・非人道的の差があるのか?ということだ。人を殺す時点でそれはもう「非人道的」行為なのだ。その殺し方を区別するのはおかしい。例えば機関銃の銃弾をかいくぐって最後は敵をナイフで刺して殺すとしたら「正しく正統的で人道的な殺人」になるのだろうか?

今回受賞した両者に対して異議を唱える気は全くない。私がいつもおかしいと思うのは、戦争はあって当たり前という前提で、そこで行われている行為の比較をしている「グローバルスタンダード」というものに対してだ。たぶん私はそういう意味での「グローバルスタンダード」を永遠に理解できないであろう





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先月のある日、私の記憶では、最初に認識したのは地震があった後だと思うが(実際の開店日は知りませんが)、こんなところに?という場所に居酒屋が突如として現れていた。
それは幸坂下通りの浜側、ちょうど現在閉鎖されている布目の本工場の斜め向かい側の一軒家が、ある日突然居酒屋に変身していたのだった。普通新しいお店ができる時には、内装工事の大工さんなどが出入りをして何となく「あっ、何かできるんだな」という予備知識を持つことができ、開店したら「あぁ、こういう店だったんだ」と平常心で見ることができるが、この居酒屋には(たまたま私が目撃しなかっただけかもしれませんが)そのような予兆を発見する機会もなく、そう、ある日たまたま近くの道路を通ったら突然・・・・・あっ、居酒屋がある・・・・・。

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店名は冒頭の写真を拡大してやっとわかったのだが「ポッピー」というらしい。だが、少し離れて様子を窺う程度であれば店名はわからない。しかし、場所がらインパクトは充分ある。ただでさえその周辺の住民数が少ないのに(まして居酒屋に行こうとする、元気な壮年以下の数も少ないのに)まさかこんな場所に居酒屋を構えるなんて。
これが駅前なら全然驚かない。十字街でも「おっ、できたか」というのりで見ることができる。
しかし、ここは弁天町である。まして大黒通りでもない。電車通りでもない、はっきり言って「浜」だ。

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ともかく、今の関心は美味しいのかとか料金はどうかとか、メニューの品ぞろえがどうかということではなく、どうしてこの場所を選んだのかということだ。

意外と臆病な私は、だれか一緒に行ってくれる人と巡り会う機会を探している。
それでも、ともかく・・・・弁天町に新しいお店図次々とできていくことはとても面白い(笑)



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あまり仕事のことについて話をしない私ではありますが、まぁどうでもいい話なので少しだけお話ししますと、私のディスクには電話がありません。
それは決して会社がケチっているわけではないのだろう(たぶんそうだろうと信じている)と思うのですが、今年社内の電話機の一斉リニューアルと同時に配線のリニューアルをした際、私の席には電話が無くなっていたのでした。

私が推測する理由について話をするとかなり遡って話を始めなければならなくなるため、要点だけをお話ししますけど、大きな理由に私は会社にかかってくる電話に出ないからであります。出ない奴の前に電話を置いても仕方ないだろうとの判断からでしょうが、それはそれで「まぁ、どっちでもいいかな」という感想を持っております。
そもそもなぜ電話に出ないようになったのか、私なりに理由があります。
それは、自分がどこかの会社に電話をかけた時、女性が出るのとオヤジが出るのとでは、その会社のイメージが大きく異なって来ると感じているからです。もちろん男性でもその人の雰囲気等によっても違うでしょうが、一般的にはむさくるしいオヤジが電話に出ると「この会社怖いかもしれない」というイメージを持ってしまいがちであります。一般的には会社の声の窓口である電話にはかなり高い確率で女性が出た方がイメージはいいはずです。

ですから私は、今の会社に女性の割合が多いことをいいことに、なるべく自分ではなく誰でもいいから女性が電話に出てくれと、自ら出ないようにしてまいりました。その結果が現在の状況になったわけであります。
しかし、ちょうどいい具合に、ガラケーからスマホに替えた際、かけホーダイプランにしたため、特別な支障もなく業務を遂行できおります。ですが、ちょっとショックだったのは、電話のリニューアルで、自分の席に電話が無いのは、私以外は短時間のパートさんともうひとりあまり電話を使わない人の三人だけだったことです(笑)

まぁ、このブログをずっと読まれている方はある程度納得できるかと思いますが、自分の考えを貫くと電話が無くなる、といういかにも私らしい状況が拓けて参るのです。それで腐ったり文句を言いたくなったりしない自分は、まだ我道を行けそうな気がしています。

ポジティヴ・ポジティブ・・・(笑)



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