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切ない街、函館(2)_a0158797_23074031.jpg

北海道に帰って来た。これからは本州への転勤を考えることはほとんどしなくていい。
私は新しい仕事に早く順応しようと努める反面、札幌を楽しんだ。すすきのには定期的に飲みに出かけ、いわゆるメニューのない(座ったらその日の料理が自動的に出てくる)美味しい小料理屋も見つけ、接待をうまく取りまとめてくれるホステスさんも見つけて取引相手と呑んだり、その他ひとりでも楽しめるお店を探したり、時期になると夕張まで行って夕張農協に販売している「規格外」の食べきれないほどの大きさの夕張メロンを安く買って来て、飽きるほど食べたり、色々な蕎麦店を探し、どこが自分にとってもっと好みに合うか食べ比べたり、ロフトでサボンドマルセイユの大きなオリーブ石鹸を買って使ったり、札幌という都市規模故に楽しむことができることと、札幌から車で容易に日帰りできる範囲で小旅行したりと、札幌での生活を楽しんでいた。

そんな札幌生活と伴って、盆休みや正月休みには、函館に帰省するようになった。そして、本当にしばらくぶりの函館は、それまでとは違った風景を私に見せてくれた。どこか重たい空気は相変わらずあるけれど、それが函館の歴史がもたらすもののひとつであったことに気が付いたのだった。
私が転勤で初めて本州に行くことになったその1年前、私は碧血碑の前にある東屋で木の枝の隙間から見える市街地をボーと眺めていた(現在は樹木が伸び見えなくなってしまっている)。碧血碑はご存知の方もいらっしゃるかもしれないが、箱館戦争で敗れた旧幕府軍の戦士たちの魂を鎮めている碑。恥ずかしながら私はその歴史をその時初めて知ったのだった。
「何とすごい街で私は育ったのだろう」と、私はその時思った。日本が大きく変わった戊辰戦争の最後の地が函館だったのだ。それを知った時、私が自分の中で描いていた「重っ苦しく、斜陽化し、逃げ出したい」という函館のイメージが大きく変わった。そして親に感謝した。単なる偶然だったかもしれないが、両親が函館に住まなかったら、私を函館で育てなかったらこんな気持ちには決してならなかっただろう。この日本の歴史上でも最も激動の時代の舞台のひとつであった函館に今自分はいるのだ。
そう考えると、函館という街がとても愛おしくなった。

だが、函館は結局私を投げ捨てた。いつもそうだった。今度こそ函館で生きて行こうと心に決めても、(就職先の選択も間違っていたのかもしれないが)結局転勤という形で、私が函館に在住することを拒否された。転勤のない社員もいたのだが私の場合は出なければならない人間だった。
若い頃は嫌いだから私から離れて行った函館。だが、心を決めて函館に近付こうとすると、それを拒絶するかのように放される。でも、どこかで愛おしい函館がある。だからままた戻る。するとまた離される。まるで片思いの女性にふられながら、また付き合ってほしいと言って近付いたら、前と同じようににふられてしまう、とても切ない街だった。

ずっとその繰り返しだった。

だが、転勤生活を続けていた50歳頃のこと、私の「死に場所」は北海道ではなく、やはり函館でなければならないという気持ちになった。北海道の帯広でもなく札幌でもなく、旭川でもなく、富良野でもなく、小樽でもなく、私は函館で死にたいのだ、という気持ちを明確に持った。それは、北海道内で転勤したり出張したりして見た街よりも、やはり死に場所は函館でなければならない。
その心が固まった時、私はその当時の会社を辞め、函館に戻った。

函館に戻ると、私は函館の歴史を調べたり、写真を撮ったり、まるで今までの空白を埋めるかのように、まるでやっと付き合ってくれた女性の姿を隅から隅まで眺めるかのように、函館を知ろうとした。とてもファンタスティックな時だった。映画「海炭市叙景」の函館での物語は、同じ函館市民の中からも「あんなことは函館にもないよ」という声が上がっていたが、私の幼い頃住んでいた西部地区の長屋の2~3軒先の家庭で実際に起きていたとしても不思議ではない物語に思えた。そう、同じ函館市民でも、「函館」を経験している人としていない人が混在している、そう思った。仕事で色々な人と関わっていくうちに、私が好きになった函館と若い頃嫌いだと思ってた函館の両方が今でも存在していることがわかった。それは相当前にこのブログで書いた詩「赤いブルドッグ」で私なりに表現したつもりだ。もしそれをお読みになりたい方がいたら、画面の右側のずっと下の方にブログ内検索かがあるので、そこで調べてお読みになっていただきたい。

ともかく、今函館には愛おしい函館と大嫌いな函館が同時に存在している。

それもまた函館の切なさなのだ。





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想い出は悔やんでも返ってこない_a0158797_00225553.jpg

この写真は函館で撮られた写真だ。

モデルになってくれた女の子も今では函館にいない。とても若いから自分の生き方を求めて函館から旅発ったのだろう。

写真におさまってくれた時は、まだ二十歳だった。とても純粋な心が体中に、仕草に表れていた。
それを私は彼女本来の透明性を、結局撮ることができなかった。

きっと自分がもっと視点を変えて彼女を撮っていたのなら、もっといい写真になったかもしれない。それはモデルさんのせいではなく、全て私の責任だ。
もっともっと彼女の良さを写真という記録媒体に残せなかったのか?

彼女はこの写真を撮影した時よりもずっと大人になっているだろう。
変わっていないのは自分だけなのかもしれない。
そんなことはいくら悔やんでも、もう戻ってこない。

私の記憶の時間よりも彼女が生きている時間の速さがまるっきり違うのだから。
あぁ、また反省しなければならない、と酒を飲みながら想う。




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切ない街、函館(1)_a0158797_22333555.jpg

実を言うと、若い頃私は函館が嫌いだった。
いつも空気が重苦しく、具体的に何かはわからないが、人の動きをがんじがらめにして止めようとしている気がしていた。そういう空気が街中に溢れていた。
だから、私は自由になりたくて大都市に脱出することにした(と言っても大学進学であったため、脱出させてもらったという方が適切だ)。進学先の札幌では120万人(当時)の中の単なる若者のひとりでしかなかった。それが心地良かった。その自由な環境の中で恋をし、バイトをし、一人で喫茶店で何時間もねばり小説を書いたり、詩を書いたりしていた。
それまで味わったことのない想像力を札幌は与えてくれた。函館にいた時よりも東京をもっと身近に感じさせてくれた。言葉も函館弁から標準語に近く話すようになった。函館に帰省しても、その重っ苦しい空気にすぐ嫌気が差し、都会であり、自由があり、恋人がいる札幌にすぐ帰りたくなった。

だから私はずっと函館を振り返らなかった。ただ実家がそこにある。自分にとってはそれだけの存在だった。その頃の札幌は、都市機能は大都市なみだが、人は田舎者の集まりでお互いその寂しさを埋めるように暖かく接してくれる人が多かった。こんな素晴らしい街はない、といつも思っていた。よく転勤で札幌に赴任し、次の転勤が命令が出たら退職し、そのまま札幌に住み続ける人がいるという話を聞いたが、その人の気持ちがよく分かった。

ところが、あることがきっかけで一度函館(実家)に居を移したことがあった。そして、函館で仕事をしたのだが、勤めた会社は全道に支店があったため、私は札幌転勤をを命じられた。もちろん命令には従い札幌で働いた。ところが個人的な事情があり、その会社を退職して函館に戻った。その後色々な事情によって就いた仕事がまた転勤がある会社で、今度は札幌だけではなく、全国に出張したり転勤したりすることになった。

そのようにして、函館に入ったり出たりしていくうちに、自分の「居所」はどこなのだろうかと真剣に考え始めるようになった。ある時、赴任先のある街で地元採用された社員と話していたら、とても羨ましくなった。彼はあくまで自分が住んでいる町を基準に考えていた。もちろん彼には彼の自浄があったのかもしれないが、ともかく「自分の家がある」という前提で話をしていた。そこは彼の基盤となるものがそこにあるというニュアンスを私に与えてくれるものだった。だから私より年下ながら(見た目もそんなに強そうに見えなかったが)どこか逞しく見えた。それに比べて私には仮の居住地しかない。次の転勤命令が出るまでの一時的な市民という存在。いったい私はどこに居所を見出したらいいのだろうか?心の拠り所を見つけたらいいのだろうか?収入?地位?もちろん家族は付いて回るものなのでそれは大前提として考えてみた。

そして、転勤先の新潟県燕市で働いていた時、この街に住みたいと突然思った。それ以前にも新潟県に転勤した時もその時も、私は新潟県民の県民性にとても惹かれていた。新潟県民はとても優しかった。もちろん例外も新潟県に拘らずどこにでもあるだろうが、大方の新潟県民は物腰が柔らかくのんびりとした雰囲気を持っていた。そういう風貌とは裏腹に、あの「こしひかり」を産み出し、ノーベル賞の晩餐会で使用される金属食器を創り出すほどの技術力があった。街中で見かける人にそのようなものを創り出すようなスーパースターのような光を放っている方は見かけなかった。どこにでもいそうなおじさんたちが日本や世界に誇る優れたものを作っていたのだった。
そられが全て魅力的だった。地味な努力を積み重ねて、いつしかトップに立っている。そんな県民性が好きだった。

新潟県民になりたい。そう妻に告白すると、妻はしばらく考えて私にこう質問した。「いいけど、新潟に骨を埋める覚悟はあるの?」

私は絶句した。正直言ってそこまでは考えていなかった。その時の今の気持ちしか私にはなかった。
ちょうどその頃、私は原因不明の体の痛みを感じ、県立病院に通い精密検査を何度かにわたって受けていた。そのような大規模総合病院は待ち時間が長い。とてつもなく長い。そんな待ち時間の間には見たいか見たくないかに拘らず見てしまう光景がある。それは緊急搬送された老人たちだ。老人たちは身動き一つせず運ばれて行く。息をしているのかどうかもわからない。私の目の前を通り過ぎた後、処置や手術などによって回復できるのか、そのまま息が途絶えてしまうのか、それはわからないし、職員に訊くべきことでもないし、訊いても職員は答えてくれないだろう。
だが、いずれにしてもその老人たちはこの街に骨を埋めるのだろう。そう考えると、私の死に場所はどこがいいのだろう、と考えるようになった。その光景を何度か見ているうちに、自分の「居場所」ではなく、「死に場所」を考えるようになった。しばらくの間何度も考えた。新潟県で死ぬのもそんなに悪くない。だが、やはり死ぬなら北海道がいい。北海道で生まれて多くの時間を北海道で過ごした自分の死に場所はやはり北海道しかない。そう思った時、成すべき営業成績目標を達成させてから上司に北海道に帰してほしいと願い出た。その後しばらくして、その上司から「札幌に新規支店を出すから行ってほしい」という転勤話を持ちかけられた。私はもろ手を上げてその転勤命令を受諾した。

やっと北海道に帰って来た。私はもう二度と北海道から離れないと心に決めていた。もしまた道外への転勤命令が出たら退職しようと心に決めていた。しかし、住民としての基盤はそう簡単にはできない。生活の安定も考えなければならない。次の転勤話ができるまでに札幌での生活基盤ができるだろうか?そんな不安を抱えながら仕事をしていた時、その支店のある事務所の目と鼻のあった、以前に努めていた会社の本社から出て来た昔の上司とばったりあった。もちろん私は覚えていたが、元上司もちゃんと覚えていてくれ、何度か偶然出会っているうちに飲みに行こうかという誘いを受けた。そして何年かぶりに二人で飲んで話をしていたある時点で、元上司は「うちに戻らないか?」と問いかけてくれた。その会社は道外にも支店支社があるけれど、可能性としては道内の転勤の方が高い会社だった。そして自分もそろそろいい歳になったために、社風を知っているところの方が安心だった。私は二つ返事で再入社のお願いをした。

すべからず私はその会社に再就職し本社勤務となった。以前社員だったとしても当然また入社手続きをしなければならなかった。その手続きの中には、どこの会社にでもあると思うが身元保証人になってもらう人が必要だった。そんなことは実の親にしか頼めないのだが色々な事情があり、5~6年間親とは会っていないどころか連絡もしていなかった。しかし入社するためには親に保証人になってもらう必要がある。
私は意を決して実家のある函館に向かった。久し振りに見た函館はやはり重苦しかった。それは、昔と何ら変わらない嫌いな函館であった。

つづく





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ふと気付くと、私が函館に戻ってから今月で10年になっていた。
10年、この間に色々なことがあった。そして確実に歳をとった。シンプルに言えばそれだけで済んでしまう。
ただ、写真だけはどんな時も撮り続けていた。
上と下の3枚の写真は10年前の春の写真だ。この時はまだ函館に引っ越していなかった。

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この当時はフィルムカメラで撮っていた。フィルムのISOの選択も何もわからず、また、カメラの操作もほとんどわからないままに撮っていた。
そして、約半年近く経ち函館市民となった秋に撮った写真。

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そう、これはこのブログのプロフィール用の写真だ。今、この建物は新しい所有者が中を改造するのか、ゆっくりと工事が行われているようだ。

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ほんの半年だが、少しだけフィルムの選び方などがわかり、春よりはましな写真となっている。
そして、春の写真の4枚目とほぼ同じ構図の写真。

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何が違うかすぐわかった方も多いだろう。秋のこの写真にはゴライアスクレーンがなくなっていた。
たった半年でこれだけ変わるのだから、10年も経つとたくさんのことが変わってしまうのは仕方のないことなのだろう。
この10年間のことについては、このブログを開設した来年1月あたりに「10周年記念」みたいなほぼ自己満足的な企画で話してみたいと思う。

そう、10年前は開港150周年で盛り上がっていた。その時のパワーを、今私は必要としている。





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昔は普通の、今では特別な切ない風景_a0158797_22251282.jpg

樋口一葉が小説を書きたいと思ったある人の一言があったという。

樋口家は一葉の父や兄が役人でだったこともあり、それなりに裕福な家庭であったという。しかし、先に兄が、続いて父が亡くなると一家は極貧の生活を強いられることになった。当然住まいも貧しい人々が暮らす下町に移らざるをえなくなった。そんな日々の中で、まだ「お嬢様気分」が心のどこかに残っていた一葉に、長屋の老婆のある一言に衝撃を受けたという。


老婆「つらいねぇ」

一葉「えっ、何がつらいのですか?」

老婆「馬鹿だね、生きるのがに決まっているじゃないの」

その後、しばらくしてあの有名な奇跡の14ヶ月が始まったという。




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ロビンソン_a0158797_23362621.jpg

平成を振り返る番組がテレビでよく放映されるようになった。

ふと、自分にとって平成とはと考えた時、なぜかスピッツを思い出した。

どうしてだろう?

その頃私はこの先どのようにして生きていいかわからないような日々を過ごしていた。未来が見えなく、ただ日々生活のためにとりあえず仕事だけはきちんとこなせるようにすることだけが、生きる術だと考えていた。

そんな時、押しつけがましくなく、自然と耳を委ねることができる曲が有線でしょっちゅう流されていた。
もう少し軽く考えてもいいんじゃないか、もう少し希望を持ってもいいんじゃないか。彼らの唄はそのように私の体に入った。

「ロビンソン」





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ぼーにのしょくどう_a0158797_22362025.jpg

先週ボーニの食堂に行った。
今は、ちゃんとした名前のあるレストランなのだが、私にとってはやはり「ぼーにのしょくどう」なのだ。

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私が子供の頃、父が半年以上にも及ぶ北洋漁業から帰って来ると、必ずボーニに行き、おもちゃ売り場で何かを買ってもらい、ルンルン気分で昼食をぼーにのしょくどうで食べたのだった。父はあまりお出かけをしたくないタイプであったため、家族そろってのお出かけは「オカ」に上がった最初と海に出る前のけじめ的な時しかなかったように記憶している。

ちなみに父が働いていたのは蟹工船であった。仕事のことはあまり聞いたことがなかったが、1,2年前に操業当時の話を少しだけ聞いたことがある。広いベーリング海にぽつんと停泊している母船で毎日3~4時間の睡眠で、その他はずっと休日もなしに働いたという。まさに小林多喜二の「蟹工船」の世界だった。朝目覚めると誰か一人がいなくなったこともあったそうだ。たぶん、過酷な労働に耐え切れず、夜のベーリング海に身を投じたのだろう、と父たちは考えていた。そんな過酷な環境で耐えうれたのもきっと家族がいたからだったのではないかと想像した。だから、下船時に支給されるボーーナスで、私たち兄弟はボーニでおもちゃを買ってもらい、ぼーにのしょくどうでご飯とデザートを食べさせるのも楽しみの一つだったのかもしれない。

なによりも子供にとって、まして、当時の子供にとって喉から手が出るほど楽しみにしていたのはデザートだった。主食はてきとうに食べ、食後に出てくるデザートがどちらかというとメインだった。そして、私の記憶の中で最も注文したのがバナナサンデーだった。

ぼーにのしょくどう_a0158797_01181193.jpg

バナナは時々母が買って来てくれて食べ慣れているはずなのに、アイスクリームと生クリームが添えられると、普段食べるバナナとは全く違う味に感じていた。アイスクリームも普段小遣いで買った10円の雪印のアイスクリームとは違った味がした。生クリームなんてここでしか食べれなかった。
改めて50年ぶりに食べてみるととても美味しかった。高級とはいえるほどのものでは決してないが、そんなことよりも、「ぼーにのしょくどう」でバナナサンデーを食べることが貴重であった。

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何歳くらいまでだったろうか、私はこの子供用椅子に腰かけ、どみの子供でもやるように、テーブルに食べ物をまき散らしていた。それを母はハンカチかちり紙(当時はティッシュなどなかった)できちんと吹いていた。それを見ていた私は、今でも、食べ物をこぼした時には、母と同じようにティッシュできちんと拭き取ったりしている。席を立った時、テーブルが汚かったら、それは恥を晒すようなものだと、私は理解していた。

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で、私はメインで何を注文したかというと、チャーハンだった。自分でもなぜチャーハンを頼んだのかさっぱりわからなかった。ぼーにのしょくどうで最後に注文するのに最もふさわしいものが何なのかわからなくなってしまい、レジで食事券を買う時、予想外に自分の口からチャーハンという言葉が出てしまった。でも、それで良かったのかもしれない。

ぼーにのしょくどうは、私たち家族連れの他に、これから旅に出ようという大人も利用していた。ここからは函館駅が見える。若いカップル(だと当時は思っていた)や一人で外を見ている女性。親戚たちと楽しい会話をしているグループ。そんな色々な立場の人たちがこのぼーにのしょくどうを利用していた。

ぼーにのしょくどう_a0158797_01374402.jpg

それは、色々な人々の希望や絶望や笑いや涙や楽しみや哀しみを一つの場所に集めたような場所だった。子供の頃はそこまで考えなくても、大人になった時、たぶんそうだったのだろうと振り返ってみることができた。
ここで食事をして旅に出る人、旅から帰ってここで食事をする人。
子供心にバナナサンデーを食べながらそのような人たちを見ていたような気がする。






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忘れられるかもしれないこの場所の風景_a0158797_22324090.jpg

この写真をご覧になった方の何割かは、この建物が映画「海炭市叙景」の舞台のひとつであったことを知っているだろう。
しかし、今は解体され更地となっている。そして時間が経つと、あたかも元々何もなかったかのように、記憶から消去され、言葉にも出ないようになるだろう。

例えば、今の道営愛宕団地が、私が卒業した「愛宕中学校」の跡地であり、その建物が建築当初の北海道立函館商船学校であり、その後弥生女子小学校となり、青函局船員養成所などを経て函館市立愛宕中学校となったことなどほとんどの人が知らないように。また、今は総称して函館山と呼んでいる連山の弥生坂上周辺が愛宕山と呼ばれ、愛宕神社が存在していたことなどごくわずかの人しか知らないように。

そのようにして、いろいろなものが失われていく。それはある意味仕方のないことではあるが、失われたものは二度と戻ってこない。写真か記録か微かな記憶の中でしか存在しないものになってしまう。

それはきっと、亡くなった人がいずれ人々の記憶からも遠ざかってしまうように、私もあなたも同じ運命を迎えることを意味する。
そう、私たちは長い歴史の中のほんの小さなワンピースにしか過ぎないし、地球の中の数えきれない生物の中では、微生物ほどの存在にしか過ぎない。

私は時々思うことがある。もし私が鯨に呑み込まれる鰊だったら、いったい何を思っただろうかと?
いや、そもそも鰊としての私には「思い」などあるのだろうか?ただ鰊として生まれた宿命として、あるいは食物連鎖の結果として、ただ鯨の食べ物となっただけのことだろうと思う。きっとそれ以上のものでもそれ以下のものでもないはずだ。

それに比べて人間は・・・・・。
だいたい、こんな面倒くさいことをここで書いてしまうのは人間くらいのものですからね(笑)



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ガラスの中のもの_a0158797_23200481.jpg

小さなころから、ガラスのショーウィンドウに並べられているものは、自分が手に出来るものではないと、なぜか子供がてらそのように理解していた。
そこには子供でもわかるような高価なものが並んでいることが何となくわかっていた。

でも、ガラスの向こうにあるものはとても高価そうで、何かのきっかけで表に出された時は、ちょっとドキドキしたこともあった。

今はそれがちょっと違って見える。ガラスという透明な壁を通して見えるものは、実際にあるのもであることはわかっていても、ちょっとだけ魔法かがった別のもののように見えてしまう。だから、ガラスの中にあるものを見ているだけで充分満足してしまうし、扉を開けて取り出すと魔法が解けてしまうのではないかと思ってしまい、じっとガラスのショーウィンドウを眺めてしまうし、それを見ているだけでちょっとだけ子供の頃の気持ちに戻ってしまう。

それは、きっとガラスには知らないうちにかけられてしまう、元々持っている魔法があるからに違いない。
そして、その光景はとても美しいる




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碧血碑から教えられたもの_a0158797_19235473.jpg

今月発行されたpeepsに柳川熊吉のことが書かれていた。
柳川熊吉に関しては、碧血碑の傍にある「柳川熊吉翁の碑」の解説板にあることしか知らなかったため、その人物像の一端が窺えて大変参考となった。そこで改めて先日碧血碑を訪れてみた。かなり昔、このブログで碧血碑のことを取り上げようとして訪れた時以来である。

その記事にも書いたかもしれないが、私が碧血碑を初めて知ったのは30代半ばの時だった。今のようにネット情報などもない時代の中、何のきっかけで碧血碑の存在を知ったのかは記憶にないが、碧血碑は私の考えを変えるきっかけを作ってくれたものだった。当時私はこれからどのように生きて行ったらいいのか、その方向が全くわからなくなっていた。ただ、その日をとりあえず生きているという、ただ生存欲だけでかろうじて命をつないでいたような日々を送っていた。逆に言うと、自分ではいつ死んでもそれも当然だろうという気持ちでいた。

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そんな時、この碧血碑と出会った。そして、この碑が作られた経緯を知り、自分がこんなに歴史が詰まっている函館で生まれてきたことになぜか意味を感じた。この意味は第三者から見ると特別意味のある事とは思えないであろう。函館で生まれた人間は数多くいたのだから。私だけに与えられた特別な意味とはならないと人が思うのは当たり前のことだろうと思う。だが、自分の中から何もかもが無くなりそうになっていた私にとっては、それは自分がこの世に存在する意味をかろうじて見出すことができるきっかけとなった出来事だった。

自分が育ったこの街で戦争があり、徳川が完全に終わり、その後北海道で最も豊かな(あるいは全国的でも)都市となった街を幼いころから自分が歩き回っていたと思うと、自分と函館の間に何かで繋がった気がした。

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そんなことを碑の近くにある東屋から市街地を眺めながら考えていた。今、その場所からは市街地が木々の枝葉で見えづらくなっている。自分の記憶が変わらないまま、時間と木々の成長が現代に向かっていたのだった。

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そんなこともあり、私が函館の歴史に関心を持った最初の出来事がこの碧血碑であった。函館の歴史を語る貴重な痕跡は、特に西部地区の普段気が付かない場所に、まるで探し出した者にだけしか教えてあげないよ、といわんばかりに密かに佇んでいる。

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