タグ:函館の想い出 ( 92 ) タグの人気記事

a0158797_23100795.jpg

ふと気付くと、私が函館に戻ってから今月で10年になっていた。
10年、この間に色々なことがあった。そして確実に歳をとった。シンプルに言えばそれだけで済んでしまう。
ただ、写真だけはどんな時も撮り続けていた。
上と下の3枚の写真は10年前の春の写真だ。この時はまだ函館に引っ越していなかった。

a0158797_23323851.jpg

a0158797_23331467.jpg

a0158797_23334807.jpg

この当時はフィルムカメラで撮っていた。フィルムのISOの選択も何もわからず、また、カメラの操作もほとんどわからないままに撮っていた。
そして、約半年近く経ち函館市民となった秋に撮った写真。

a0158797_23395049.jpg

そう、これはこのブログのプロフィール用の写真だ。今、この建物は新しい所有者が中を改造するのか、ゆっくりと工事が行われているようだ。

a0158797_23424844.jpg

a0158797_23433535.jpg

ほんの半年だが、少しだけフィルムの選び方などがわかり、春よりはましな写真となっている。
そして、春の写真の4枚目とほぼ同じ構図の写真。

a0158797_23460014.jpg

何が違うかすぐわかった方も多いだろう。秋のこの写真にはゴライアスクレーンがなくなっていた。
たった半年でこれだけ変わるのだから、10年も経つとたくさんのことが変わってしまうのは仕方のないことなのだろう。
この10年間のことについては、このブログを開設した来年1月あたりに「10周年記念」みたいなほぼ自己満足的な企画で話してみたいと思う。

そう、10年前は開港150周年で盛り上がっていた。その時のパワーを、今私は必要としている。





いつもお読みいただきありがとうございます。どうか二つのクリックお願いします。(笑)

 にほんブログ村 地域生活(街) 北海道ブログ 函館情報へ
 人気ブログランキング     日本ブログ村

a0158797_22251282.jpg

樋口一葉が小説を書きたいと思ったある人の一言があったという。

樋口家は一葉の父や兄が役人でだったこともあり、それなりに裕福な家庭であったという。しかし、先に兄が、続いて父が亡くなると一家は極貧の生活を強いられることになった。当然住まいも貧しい人々が暮らす下町に移らざるをえなくなった。そんな日々の中で、まだ「お嬢様気分」が心のどこかに残っていた一葉に、長屋の老婆のある一言に衝撃を受けたという。


老婆「つらいねぇ」

一葉「えっ、何がつらいのですか?」

老婆「馬鹿だね、生きるのがに決まっているじゃないの」

その後、しばらくしてあの有名な奇跡の14ヶ月が始まったという。




いつもお読みいただきありがとうございます。どうか二つのクリックお願いします。(笑)

 にほんブログ村 地域生活(街) 北海道ブログ 函館情報へ
 人気ブログランキング     日本ブログ村

a0158797_23362621.jpg

平成を振り返る番組がテレビでよく放映されるようになった。

ふと、自分にとって平成とはと考えた時、なぜかスピッツを思い出した。

どうしてだろう?

その頃私はこの先どのようにして生きていいかわからないような日々を過ごしていた。未来が見えなく、ただ日々生活のためにとりあえず仕事だけはきちんとこなせるようにすることだけが、生きる術だと考えていた。

そんな時、押しつけがましくなく、自然と耳を委ねることができる曲が有線でしょっちゅう流されていた。
もう少し軽く考えてもいいんじゃないか、もう少し希望を持ってもいいんじゃないか。彼らの唄はそのように私の体に入った。

「ロビンソン」





いつもお読みいただきありがとうございます。どうか二つのクリックお願いします。(笑)

 にほんブログ村 地域生活(街) 北海道ブログ 函館情報へ
 人気ブログランキング     日本ブログ村

a0158797_22362025.jpg

先週ボーニの食堂に行った。
今は、ちゃんとした名前のあるレストランなのだが、私にとってはやはり「ぼーにのしょくどう」なのだ。

a0158797_22383669.jpg

私が子供の頃、父が半年以上にも及ぶ北洋漁業から帰って来ると、必ずボーニに行き、おもちゃ売り場で何かを買ってもらい、ルンルン気分で昼食をぼーにのしょくどうで食べたのだった。父はあまりお出かけをしたくないタイプであったため、家族そろってのお出かけは「オカ」に上がった最初と海に出る前のけじめ的な時しかなかったように記憶している。

ちなみに父が働いていたのは蟹工船であった。仕事のことはあまり聞いたことがなかったが、1,2年前に操業当時の話を少しだけ聞いたことがある。広いベーリング海にぽつんと停泊している母船で毎日3~4時間の睡眠で、その他はずっと休日もなしに働いたという。まさに小林多喜二の「蟹工船」の世界だった。朝目覚めると誰か一人がいなくなったこともあったそうだ。たぶん、過酷な労働に耐え切れず、夜のベーリング海に身を投じたのだろう、と父たちは考えていた。そんな過酷な環境で耐えうれたのもきっと家族がいたからだったのではないかと想像した。だから、下船時に支給されるボーーナスで、私たち兄弟はボーニでおもちゃを買ってもらい、ぼーにのしょくどうでご飯とデザートを食べさせるのも楽しみの一つだったのかもしれない。

なによりも子供にとって、まして、当時の子供にとって喉から手が出るほど楽しみにしていたのはデザートだった。主食はてきとうに食べ、食後に出てくるデザートがどちらかというとメインだった。そして、私の記憶の中で最も注文したのがバナナサンデーだった。

a0158797_01181193.jpg

バナナは時々母が買って来てくれて食べ慣れているはずなのに、アイスクリームと生クリームが添えられると、普段食べるバナナとは全く違う味に感じていた。アイスクリームも普段小遣いで買った10円の雪印のアイスクリームとは違った味がした。生クリームなんてここでしか食べれなかった。
改めて50年ぶりに食べてみるととても美味しかった。高級とはいえるほどのものでは決してないが、そんなことよりも、「ぼーにのしょくどう」でバナナサンデーを食べることが貴重であった。

a0158797_01251074.jpg

何歳くらいまでだったろうか、私はこの子供用椅子に腰かけ、どみの子供でもやるように、テーブルに食べ物をまき散らしていた。それを母はハンカチかちり紙(当時はティッシュなどなかった)できちんと吹いていた。それを見ていた私は、今でも、食べ物をこぼした時には、母と同じようにティッシュできちんと拭き取ったりしている。席を立った時、テーブルが汚かったら、それは恥を晒すようなものだと、私は理解していた。

a0158797_01320160.jpg

で、私はメインで何を注文したかというと、チャーハンだった。自分でもなぜチャーハンを頼んだのかさっぱりわからなかった。ぼーにのしょくどうで最後に注文するのに最もふさわしいものが何なのかわからなくなってしまい、レジで食事券を買う時、予想外に自分の口からチャーハンという言葉が出てしまった。でも、それで良かったのかもしれない。

ぼーにのしょくどうは、私たち家族連れの他に、これから旅に出ようという大人も利用していた。ここからは函館駅が見える。若いカップル(だと当時は思っていた)や一人で外を見ている女性。親戚たちと楽しい会話をしているグループ。そんな色々な立場の人たちがこのぼーにのしょくどうを利用していた。

a0158797_01374402.jpg

それは、色々な人々の希望や絶望や笑いや涙や楽しみや哀しみを一つの場所に集めたような場所だった。子供の頃はそこまで考えなくても、大人になった時、たぶんそうだったのだろうと振り返ってみることができた。
ここで食事をして旅に出る人、旅から帰ってここで食事をする人。
子供心にバナナサンデーを食べながらそのような人たちを見ていたような気がする。






いつもお読みいただきありがとうございます。どうか二つのクリックお願いします。(笑)

 にほんブログ村 地域生活(街) 北海道ブログ 函館情報へ
 人気ブログランキング     日本ブログ村

a0158797_22324090.jpg

この写真をご覧になった方の何割かは、この建物が映画「海炭市叙景」の舞台のひとつであったことを知っているだろう。
しかし、今は解体され更地となっている。そして時間が経つと、あたかも元々何もなかったかのように、記憶から消去され、言葉にも出ないようになるだろう。

例えば、今の道営愛宕団地が、私が卒業した「愛宕中学校」の跡地であり、その建物が建築当初の北海道立函館商船学校であり、その後弥生女子小学校となり、青函局船員養成所などを経て函館市立愛宕中学校となったことなどほとんどの人が知らないように。また、今は総称して函館山と呼んでいる連山の弥生坂上周辺が愛宕山と呼ばれ、愛宕神社が存在していたことなどごくわずかの人しか知らないように。

そのようにして、いろいろなものが失われていく。それはある意味仕方のないことではあるが、失われたものは二度と戻ってこない。写真か記録か微かな記憶の中でしか存在しないものになってしまう。

それはきっと、亡くなった人がいずれ人々の記憶からも遠ざかってしまうように、私もあなたも同じ運命を迎えることを意味する。
そう、私たちは長い歴史の中のほんの小さなワンピースにしか過ぎないし、地球の中の数えきれない生物の中では、微生物ほどの存在にしか過ぎない。

私は時々思うことがある。もし私が鯨に呑み込まれる鰊だったら、いったい何を思っただろうかと?
いや、そもそも鰊としての私には「思い」などあるのだろうか?ただ鰊として生まれた宿命として、あるいは食物連鎖の結果として、ただ鯨の食べ物となっただけのことだろうと思う。きっとそれ以上のものでもそれ以下のものでもないはずだ。

それに比べて人間は・・・・・。
だいたい、こんな面倒くさいことをここで書いてしまうのは人間くらいのものですからね(笑)



いつもお読みいただきありがとうございます。どうか二つのクリックお願いします。(笑)

 にほんブログ村 地域生活(街) 北海道ブログ 函館情報へ
 人気ブログランキング     日本ブログ村

a0158797_23200481.jpg

小さなころから、ガラスのショーウィンドウに並べられているものは、自分が手に出来るものではないと、なぜか子供がてらそのように理解していた。
そこには子供でもわかるような高価なものが並んでいることが何となくわかっていた。

でも、ガラスの向こうにあるものはとても高価そうで、何かのきっかけで表に出された時は、ちょっとドキドキしたこともあった。

今はそれがちょっと違って見える。ガラスという透明な壁を通して見えるものは、実際にあるのもであることはわかっていても、ちょっとだけ魔法かがった別のもののように見えてしまう。だから、ガラスの中にあるものを見ているだけで充分満足してしまうし、扉を開けて取り出すと魔法が解けてしまうのではないかと思ってしまい、じっとガラスのショーウィンドウを眺めてしまうし、それを見ているだけでちょっとだけ子供の頃の気持ちに戻ってしまう。

それは、きっとガラスには知らないうちにかけられてしまう、元々持っている魔法があるからに違いない。
そして、その光景はとても美しいる




いつもお読みいただきありがとうございます。どうか二つのクリックお願いします。(笑)

 にほんブログ村 地域生活(街) 北海道ブログ 函館情報へ
 人気ブログランキング     日本ブログ村

a0158797_19235473.jpg

今月発行されたpeepsに柳川熊吉のことが書かれていた。
柳川熊吉に関しては、碧血碑の傍にある「柳川熊吉翁の碑」の解説板にあることしか知らなかったため、その人物像の一端が窺えて大変参考となった。そこで改めて先日碧血碑を訪れてみた。かなり昔、このブログで碧血碑のことを取り上げようとして訪れた時以来である。

その記事にも書いたかもしれないが、私が碧血碑を初めて知ったのは30代半ばの時だった。今のようにネット情報などもない時代の中、何のきっかけで碧血碑の存在を知ったのかは記憶にないが、碧血碑は私の考えを変えるきっかけを作ってくれたものだった。当時私はこれからどのように生きて行ったらいいのか、その方向が全くわからなくなっていた。ただ、その日をとりあえず生きているという、ただ生存欲だけでかろうじて命をつないでいたような日々を送っていた。逆に言うと、自分ではいつ死んでもそれも当然だろうという気持ちでいた。

a0158797_20594385.jpg

そんな時、この碧血碑と出会った。そして、この碑が作られた経緯を知り、自分がこんなに歴史が詰まっている函館で生まれてきたことになぜか意味を感じた。この意味は第三者から見ると特別意味のある事とは思えないであろう。函館で生まれた人間は数多くいたのだから。私だけに与えられた特別な意味とはならないと人が思うのは当たり前のことだろうと思う。だが、自分の中から何もかもが無くなりそうになっていた私にとっては、それは自分がこの世に存在する意味をかろうじて見出すことができるきっかけとなった出来事だった。

自分が育ったこの街で戦争があり、徳川が完全に終わり、その後北海道で最も豊かな(あるいは全国的でも)都市となった街を幼いころから自分が歩き回っていたと思うと、自分と函館の間に何かで繋がった気がした。

a0158797_21452805.jpg

そんなことを碑の近くにある東屋から市街地を眺めながら考えていた。今、その場所からは市街地が木々の枝葉で見えづらくなっている。自分の記憶が変わらないまま、時間と木々の成長が現代に向かっていたのだった。

a0158797_22302965.jpg

そんなこともあり、私が函館の歴史に関心を持った最初の出来事がこの碧血碑であった。函館の歴史を語る貴重な痕跡は、特に西部地区の普段気が付かない場所に、まるで探し出した者にだけしか教えてあげないよ、といわんばかりに密かに佇んでいる。

a0158797_22370133.jpg




いつもお読みいただきありがとうございます。どうか二つのクリックお願いします。(笑)人気ブログランキングへ にほんブログ村 地域生活(街) 北海道ブログ 函館情報へ
にほんブログ村
a0158797_22084999.jpg

子供の頃、この辺りは自分と同じような、あるいはもっと年下の子供たちで賑わっていた。
この辺りは岩場が多いため、海から岩の上に登ると体のどこかをいつも傷付けていた。それでもかまわずまた海に飛び込んでいった。

a0158797_22171412.jpg

そして、こういう船を見つけると、戦争が始まるのではないかとちょっと不安になった。私がまだ幼い頃、どこの家庭でも同じようにテレビが自宅で見れるようになると、ずっとテレビを見ていたが、その頃テレビで流される映画は戦争映画が多かった。子供心にとても怖かった記憶がある。夜床に就いてから飛行機(プロペラ機)の飛行音がすると、映画で見た空爆が始まるのかなと怯えた。布団の中で身を小さくかがめ、お願いだから爆弾を落とさないでくれ、と願った。

それくらい、戦争は想像の中で身近にあった。
大人の話の中にも戦争の話があったような気がする。戦争が終わってから13年後に生まれたけれど、人々の中ではまだ戦争の経験が生々しく存在していたのだろう。私はそれを子供ながらに察知していたのかもしれない。

だから、今でも戦争に肯定的な意見を述べる人には同調できない。

原始的な感情として、私の中では「リアルな恐怖」なのだ。

a0158797_22300136.jpg

私が函館山を見る角度はいつもこうだった。左下からロープウェイが右上の山頂に登って行く。

a0158797_22330405.jpg

夏の日・子供の頃、そこにはいつも海とカモメがあった。



いつもお読みいただきありがとうございます。どうか二つのクリックお願いします。(笑)人気ブログランキングへ にほんブログ村 地域生活(街) 北海道ブログ 函館情報へ
にほんブログ村
a0158797_22511342.jpg

先日から花電車が運行しました。

私からすると小さな子供の頃から見慣れた光景なのですが、信号で停止している花電車の運転手に横断歩道を渡る観光客が写真を撮り、手を振っていた。
それは、運転手が彼らに手を振ったことへのお返しだったように見えた。それでも手を振った観光客はみんな笑顔であった。

花電車はどこにでもあると思うかもしれないが、そもそも路面電車が走っていない街では花電車など見ることはできない。
函館の小さな楽しみのひとつだ。

どうして函館市民は、こんな素敵な光景を見ることができる街に住まず、1年中同じ景色をほ見ることになる場所に住むことを選ぶだろうか。
私には不思議でたまらない。



いつもお読みいただきありがとうございます。どうか二つのクリックお願いします。(笑)人気ブログランキングへ にほんブログ村 地域生活(街) 北海道ブログ 函館情報へ
にほんブログ村
a0158797_22433119.jpg

あまり知られていないことですが、江戸時代から現在まで、函館において(旧亀田村は除く。江戸時代は市街地が全く離れていた。現代で言うと函館市と大沼ぐらい離れた感覚ではないかと想像する)その町名が残っているのは弁天町と大町だけなのです。

どうしてそうなったのかという経緯はわかりませんが、弁天町は江戸から明治に変わっても函館の中心部の役目を持ち、人口が密集する函館でも重要な「街」であった。
a0158797_23233622.jpg

しかし、市電が整備され、市街地が人口増加と共に広がって行くと、賑やかだった弁天町も次第に隙間風を感じるようになった。
私が高校生時代だった昭和50年代初め、太宰治の「斜陽」のような空気が弁天町に漂い始めた。

a0158797_23391803.jpg

函館ドックの仕事終わりに労働者たちがビールを飲んで食べていたホルモン焼き店がいつも間にか閉店していた。市電ドック前にあった食堂が閉鎖され、ドックの従業員は大幅削減され、その時、弁天町から離れて行った家族も多数いたのかもしれない。私は自分が住んでいた弁天町に沈みゆくものにできる影を感じ、直感的に函館を離れたいと考えるようになった。そこで高校を卒業すると札幌に行った。

a0158797_23562437.jpg

ところが、函館に戻り近くをくまなく歩いてみると、良く言えば下町、現実は人口減少が著しい「7過去の街」になっていた。
だが、これは函館の縮図である。歴史ほんの一時期栄えた街は、時間と共に寂しい街へと変身しなければならなくなってしまうように、函館の都市構成が変貌した。
以前に何度か話したが、いつまで経っても、東京の銀座は銀座であり、渋谷は渋谷であり、新宿は新宿であり、青山は青山だ。だから東京はいつまでも東京なのだ。

その市街地の中で、賑やかになる地域が時代と共に変わっているのは、函館がいつまでも函館であるとは限らないという推測を導く。
だから今弁天町、などとは言わないが、、この街が変わるかどうかは、今後の函館の数田を象徴することになるのではないかと思っています。



いつもお読みいただきありがとうございます。どうか二つのクリックお願いします。(笑)人気ブログランキングへ にほんブログ村 地域生活(街) 北海道ブログ 函館情報へ
にほんブログ村